少林寺拳法の記事

 

 

 毎度の御愛読、恐縮に存じます。

 さて先日、秘伝の編集部から少林寺拳法60周年記念に関して、60年史を

書いてもらえないかという話があり、正直な話、どうも気が進まなかったので

すが、たってということと、現在の少林寺拳法の外部への姿勢としては、これ

が日本固有の武道であることを強調しつつあるとのことなので、それならば、

記事に関しては昭和22年に四国で少林寺拳法が創始されてから、現在に到る

までに限定し、それ以前のことについては一切書かないことを条件に、重い腰

を上げることになりました。出自に関しては単に、これまで学んだ様々な武術

から少林寺拳法を創始した、としか書きませんでした(この点は追加されたと

しても、私の関与するところではないので念の為)。

 

 

 これまでも少林寺拳法の出自については、かなり以前から色々な人から否定

されており、そのたびにスッタモンダがあったので、今ではほとんどタブー扱

いになっているわけです。そりゃあ、誰だって自分が学んでいる流派は間違い

ないと思いたいのが人情ですし、それを否定する意見を認めてしまうと、自分

の全人生を否定されたかのように感じてしまうかもしれません。何事によら

ず、言わぬが花、知らぬが仏ということもあります。だからというわけではあ

りませんが、私も出自についてはここでは敢えて何も述べません。もうその必

要もないだろうと思うからです。それというのも、ここで今更私が書かなくて

も、既に武道界では多くの人の知るところでもあるからです。

 かつて、世を欺いて自らを宗家と名乗ったり、関連系図を付会させて、自分

の師伝をないがしろにして、いかにも古い流派のように見せかけることは比較

的よくあることでした。今だって、古武道の中には出自が考証上限りなく怪し

い(あるいは虚偽がはっきりしている)流派はあるし、甚だしきに到っては、

これが秘伝だと称してウソを吹聴したり、ありもしない技を平然と教えたり、

それを何食わぬ顔で人前で演武するような度厚かましい人さえいるのですか

ら、一事が万事推して知るべしでしょう。「小さなウソはすぐにばれるが、大

きなウソはすぐにはばれない」とはヒトラーの弁ですが、それが戦略的に必要

な時期もあったのかもしれないのです。しかし「天網恢恢疎にして洩らさず」

とはよくも言ったりで、本当のことはいつかはわかってしまうのが世の常なの

です。なぜなら、一つのウソをつき通すためには、いくつものウソをつかなけ

ればならないからです。

 少林寺拳法の出自に関して、おそらく考証的に論破したことで最も知られて

いるのは佐藤金兵衛先生の「正統少林寺拳法疑義論」ではないかと思います。

元々は武道学会で発表するために書かれた論文ですが、色々な理由から公けに

するには到りませんでした。特に義和団については、それ以前に武芸帖誌に詳

細な考証が掲載されており、この時も闇討ちを受けたり、家を取り囲まれたり

して、大変な騒ぎになったと聞いています。同様のことは松田隆智師範が新人

物往来社から「中国武術 ―少林拳と太極拳―」を出版された時もあったよう

です。

 また、カッパブックス「秘伝少林寺拳法」の中で「牛と試合をして怪我をし

たことで有名なある空手八段が、拳と手刀を鍛えるために何年も山に篭って修

行したと書いていた。その人はアメリカに渡って煉瓦も割ったそうだが、US

Aの煉瓦は日本製よりもだいぶ堅くて困ったとも書いてあった。牛を殺す方法

は、もっとらくで有効な技術が他にあるし、煉瓦や瓦は建築に用いてこそその

価値があるものであり、それを割って見せるために何年も修行しなければなら

ないとしたら、おそらく現代人の大多数は、これを習う気がしなくなるだろ

う」と書いてあったことが極真会館の大山倍達総裁の逆鱗に触れたそうで(そ

りゃそうでしょう)、その時の顛末が「続けんか空手」や「闘魂」に書かれて

います。

 

 

 ちなみに私は一度だけ、生前の宗道臣氏の講演を聞いたことがあります。田

中角栄のような濁声でしたが、なぜ少林寺拳法を創始して教えるようになった

のか、そのいきさつについてはかなり情熱的に語っていました。

「近頃の若い者はなっていない、なんて年寄りは言うでしょうけれど、あの頃

(敗戦直後)の若い者はもっともっとなっていなかったのですぞ! このまま

ではこの国は骨抜きになる。そう思ったから、拳法を通して骨のある若者を作

りたかったんです」

 今にして思えば、いささか反動的な考え方ではあったと思いますが、敗戦に

よって日本人の公序良俗が低下したと思っている人は多いのではないでしょう

か。以前も右翼関係の人と話をした時に、やっぱりそういう話題になったもの

です。戦争に負けてから、自分たちの考え方や価値観を否定されて、それで日

本人は軽佻浮薄になり、公序良俗の低下へとつながった、という理屈です。私

は戦後生まれですから、その当時のことはよくわかりませんが、どうも戦前の

日本や日本人を美化したいという感情が先に立っているようです。右翼の人が

常套句のように使う国体護持という言葉にしても、頽廃を含めた異文化への拒

絶反応を正当化しているように思えて仕方がないのです。「良識とは常に古着

である」とは芥川龍之介の言葉ですが、そこまでいかなくても、人間の思考の

大枠は常に変化するものだと私は考えています。日本人の思想の大枠が、戦前

と戦後で違っていたとしても、それはそれで仕方がないのではないかと私は考

えています。 

 

 

 ところで、今回の執筆がなぜ気が進まなかったのかというと、出自にまつわ

ることを度外視しても、少林寺拳法の主張の中に、個人的にどうしても同意で

きないことが含まれているからなのです。これについて少し書いてみましょ

う。

 たとえば、その一つが力愛不二です。力なき正義は無力であるという考え方

は、いかにももっともらしそうですが、私には危険思想に思えてならないので

す。なぜなら、それがかつての連合赤軍が唱えていた唯銃主義と同根だからで

す。幕末に勤皇の志士が天誅と叫んで人を斬り殺したのだって同じことです。

そもそも正義という言葉は非常に相対的であって、決して普遍的なものではあ

りません。むしろ正義という言葉は、時には他人を傷つける凶器にもなるので

す。問答無用の正義の味方が現れて、悪玉をコテンパンにやっつけるのはテレ

ビのヒーロー番組だけで結構というものです。しかし人間も世の中もそんなに

単純ではありません。

 分別盛りの大人に対してならいざ知らず、年端も行かない純情多感な青少年

に対して、愛や正義の本質が何であり、悪の本質が何かもわからないうちに、

いきなり力なき正義は無力だと教えるというのはいかがなものかと思うので

す。そもそも、自分がやっていることが果たして正しいのかは固有の論理で検

証しなければならないのであって、力の裏づけとは関係ありません。その段階

を飛ばして、いきなり正義という言葉を錦の御旗よろしく使うことに、私は疑

問を感じるのです。力の裏付けのない正義が無意味だと言うのなら、政治家や

裁判官は皆腕っ節が強くなければならないことになります。そんな馬鹿な話は

ないでしょう。

 人間は正義そのものには決してなれないし、人間も世の中も善悪二元論で割

り切れるものではないのです。キリストが「この娼婦に石を投げてみよ」と

言ったのと同じです。その観点から言えば、連合赤軍の唯銃主義も幕末の天誅

も、全ては過渡期の誤りなのです。石川五右衛門の辞世の歌ではありません

が、人間の業は決して善なるものばかりではないし、そこまでを包容できるの

が本当の人間愛であり、正義よりも自分の良心に従うことの方が大事ではない

かと思うのですが、この点いかがでしょう。

 同じく不殺活人という主張にも疑問を感じます。武の本義とは争いを止める

ことであって、相手を殺傷することではない、という主張はいかにももっとも

らしそうですが、これを逆にとれば、相手を殺傷する技術は全て宜しくない、

ということになってしまいます。しかし本当にそうでしょうか。

 宗道臣著「少林寺拳法奥義」には「現代は戦国時代でもなければ、斬り捨て

御免が罷り通った江戸時代でもない。居合い抜きがどんなにうまかろうと、気

に入らない相手を斬り殺すことは出来ないし、どんなに拳頭を鍛えようと、気

に入らない相手を殴り殺すことは出来ない。そんな時代に、相手を殺傷する技

術の習得に血道を上げることは、芸人ならいざ知らず、普通人には無価値であ

ると私は考えている」とあります。今時、人を斬り殺すために居合を学ぶ人が

いたらお目にかかりたいじゃありませんか。私に言わせれば、そんなふうにし

か居合を見ることが出来ないことの方が、よっぽど次元が低いと思います。人

を殺傷する技術を学ぶのは、あくまでも入り口でしかないのであり、それが全

てではありません。

 ついでながら、日本の武道には殺活自在(活殺と書かれることがあります

が、正確には殺活です)とか、活人剣という言葉がありますが、これは殺の奥

に活がある、つまり殺人刀の奥に活人剣があるという意味です。殺人刀とは人

を殺傷する技術から入って、死生の道を明らかにするという思想です。「葉

隠」の「武士道とは死ぬことと見つけたり」という思想も元々は殺人刀から来

たのですが、その真意は「命を捨てよ」というのではなく「死線を超えて生き

よ」ということです。その奥にある活人とは、殺人刀の修行を通して相手の成

長を促進させるというのが本来の意味です。具体的には剣術の組太刀におい

て、仕太刀が殺人刀、打太刀が活人剣になるわけです。

 話が脱線しましたが、現代に於いて実力行使が許されるのは、自己の生命財

産を守る最後の手段としてのみであって、それ以外の目的で使えば、事の如何

を問わず暴力になるのです。これは相手を負傷させようとさせまいと同じこと

です。そして、本当の護身とは生死の岩頭になって為されるべきものであっ

て、中途半端に相手を懲らしめるものではないと思うのです。

 

 

 1977年、横須賀で少林寺拳法の道場生がアメリカ人の少年に難癖をつけ

て道場に引っ張り込み、殴る蹴るの暴行を加えて死に至らしめた事件は記憶に

も新しいと思いますが、なぜこんなことが起こったのでしょうか。結局は力愛

不二と不殺活人を大義名分にしたからではないでしょうか。

 どんな大義名分があろうと、暴力は暴力でしかなく、暴力に尊厳があるの

は、自己の生命財産を守る最後の手段としてのみであって、それもよくよくの

ことなのだ、ということを徹底して教えていれば、こういうことはなかったで

しょう。つまり力愛不二と不殺活人は、私闘を正当化する危険性を孕んでいる

のです。個人的には「空手に先手あり、されど私闘なし」という考え方の方

が、武道としては徹底していて、ずっと次元が高いと思います。

 

 

 

 なお、技術的な批判については南郷継正著「武道修行の道(三一書房)」に

詳しく、ほぼ私と同意見なので、そちらに譲ります。