(1)柳生新陰流に見る共創の理 (2)オランダ格闘家列伝 (3)柳生十兵衛・堀部安兵衛
(4)合(がっそう)葬 (5)高野佐三郎 剣道遺稿集 (6)板垣恵介の格闘士烈伝
(7)「武道のススメ」盧山初雄 (8)武と知の新しい地平―体系的武道学研究をめざして― (9)『新訂 孫 子』 金谷 治 訳
(10)『嘉納治五郎〜私の生涯と柔道〜』 (11)『武田惣角と大東流合気柔術』 (12)『武士道教育総論』
柳生新陰流に見る共創の理〜


           清水博・著
定価738円+税
中央公論社           (03−3563−1431)

 何やら難しいタイトルだが、この本に出会ったのが極真会館本部道場のある東京・池袋の芳林堂書店・武道書コーナーである。何でこんな本が武道書の棚に入っているのか、しかもお堅い中公新書だ。だが、サブタイトルを見るとその意味が分かる。私はこの“柳生新陰流”という文字に惹かれて買ってしまったのだ。
 頭から読み始めたが、やっぱり難解だ。大まかに目次を列挙すると、◎はじめに
 場所とは何か−−生命的な知/関係的表現の場/自己言及とシナリオの創出/脱学習と創造/場所的創造/創造における「主語」と「述語」
 剣の理と場所の論理−−リアルタイムの創出知/剣の理と場所の論理/即興劇モデルの追求
 柳生新陰流の術と理−−流史/術と理
◎おわりに
 どうも学者が書いた本は読みづらい。しかし、我慢して読み終えると著者に共感することが多かった。
 そこで、ワールド空手の読者にお勧めする読み方は、まず[はじめに]を読んだら、最終章の[柳生新陰流の術と理]を読み、次に[剣の理と場所の論理]を読む、そして最後に[T場所とは何か]を読めば面白いし、理解しやすい。欲を言えば、その後、章と読み直せばより理解を深めることになる。
 さて、本書で興味深いのは、柳生新陰流の不変の理念と技術の改変進歩である。
 柳生新陰流は上泉伊勢守秀綱(武蔵丸信綱)が室町時代の末期に新陰流として創始し、柳生石舟斎宗巌に受け継がれ、第三世の柳生兵庫助利巌によって技の上でも重要な変化がもたらされ、連也巌包によって完成されたと言われている。
 《新陰流の特色は、戦国時代末期の諸流が一般的に本源としていた、戦場における甲冑武者剣術−−介者剣術の刀法・理合を徹底的に革新して、人性に自然・自由・活発な剣術を創めたことである》
 と言う作者は、新陰流を通して剣の理と場所の論理を解説しながら本題の「生命知としての場の論理」を展開している。
 新陰流の技術で言うと、戦国時代の甲冑武者剣術、即ち甲冑によって守られ、甲冑によって身体の動きが厳しい物理的な拘束を受けている状態での介者剣法から、江戸の平和な時代に、このような拘束から離れて自由に身動きができる状態での剣法へと創造的に飛躍したと言える。
 空手界に置き換えれば、極真空手開祖=大山倍達師範が従来の型練習を中心にした当てない空手から直接打撃性の空手を主張して極真空手を創始し、全世界にKARATEを普及させ、技術的にも飛躍したことに匹敵すると言えなくもない。
 極真空手は60年代には逸早くムエタイの技術を取り入れ、また他武術・格闘技の技を改良・進化させ、最強空手を誇ってきた。現在では意拳等の技術を参考に新たな練習体系を開発し、常に新しい空手としての王道を歩んでいる。
 宮本武蔵と同時代を生きた柳生兵庫助(柳生新陰流)の剣の理は活人剣であるという。
 《相手を自由に働かせて、その働きにしたがって勝つ剣である。それは相手構わず一方的に斬る剣ではない。自分と相手の関係に目を付けて、その関係を截相として捉えることから始まる。斬るのではない、共に截り合うことによって勝つのである。
 また自分が截るのは相手ではない。
自分の人中路(自分の中心線)を截り徹すのである。それがたとえば一刀両段(自分と相手のの中心線を重ねて共に斬り徹す)であり、それは
あくまでも一刀両断(相手を真っ二つにする)ではないのだ。その結果として相手が斬られているのである》
 作者はこの「截相」に刮目し、生命的な知を考察する上で、剣の理に場所の論理を求め、様々な考察をしている。
 《私が柳生新陰流に感銘を受けることの一つは、その原理が截相の場所を設計するという考え、すなわち「先々の先」と「活人剣」という考えが基本になっている点です。
 すなわち自分が設計した場所の中で、自分が書いたシナリオにしたがって、相手に自由に演技をしていただく、そしてそのシナリオにしたがって自然に勝ちを得る、これが柳生新陰流の活人剣です。
 それは相手の自由意思を前提にした即興劇であり、相手を圧倒して抑えつける一方的な技(殺人刀)ではありません》
 この「先々の先」「活人剣」という発想こそ闘いにおいて最も重要なことだと私は思っている。
 よく「先手必勝」といわれるが、これはある程度のレベルに達すると通用しなくなる。いかに相手に先に
仕掛けさせるかが勝利の鍵である。
 《「敵を斬る」ための技ということになりますと、「いかに敵に技を出させずに我が技を出すか」という戦術、すなわち力とスピードで圧倒して敵をすくめて、敵の意志を阻むことが必要になります。すなわち、それは「反の理」に立っています。
 これに対して「截相」では、「彼が斬りそして我も斬るという截相の状態にいかにもっていくか」という戦術が必要になります。このためには敵の意志を阻んではなりません。
逆にこれを助けて、敵にその意志を発揮させることが必要です。すなわちそれは「合の理」に立つことです。
 その理由は無限定な状態、すなわち敵がどのような変化をするかが予測できない無限定な状態のままでは、どのように技を使えば勝つことができるかがわからないからです》
 以上、簡単に本書の解説を試みたが、私の理解力の浅さゆえ読者に充分伝わるとは思えないが、とにかく一読をお勧めする。
 誌面の都合上一部しか掲載できなかったが、柳生新陰流には「十文字勝ち」や「合撃」など興味深い技がまだまだ沢山あるし、稽古方法にしても根源的である。ご要望があれば再度紹介したい。ページのTopに戻る

オランダ格闘家列伝〜
    フレッド・ロイヤース 著    クン・シャルンベルフ 
定価1800円+税

 オランダといえば一般的には風車、木靴、レンブラント、ゴッホ等々思い浮かんでくるが、私たちにとっては何と言ってもジョン・ブルミンから始まる極真空手に代表される「格闘王国」としての驚異的な強さを思わざるを得ない。
人口僅か1500万人にも満たないヨーロッパの小国であるオランダが何故あらゆる格闘技で活躍しているのか?            
その強さの秘密を説き明かしているのが『レジェンド』である。本書では、オランダ格闘技の歴史を紹介するとともに10人の格闘家に直接インタビューを試みている。
登場人物を簡単に紹介しておこう。


 ジョン・ブルミン
 1964年の東京オリンピックで柔道無差別級を制したアントン・ヘーシンクはあまりにも有名だが、その彼に優るとも劣らないといわれていたのが若き日のジョン・ブルミンだった。しかし、当時のオランダでは柔道の組織が統一されておらず、弱小団体に所属していたブルミンは国際大会への出場権を与えらなかったのである。
失意の彼を救ったのが「魔法の格闘技=極真空手」だった。講道館での柔道修行時代に極真空手と居合道をも習得して帰国したブルミンは、柔道に嫌気が差し、極真空 手の普及に専念していった。オランダの主だった格闘家の多くは、直接または間接的にブルミンの
弟子である。例えば、クリス・ドールマン、ヤン・カレンバッハ、ヤン・プラス、ヴィム・ルーシュカ(ルスカ)、ルク・ホランダー……。


 ヤン・カレンバッハ
 柔道に夢中だったカレンバッハが18歳の時、ジョン・ブルミンの「魔法の格闘技」に出会った。以来、極真空手に打ち込んでいった。
極真本部道場に修行に来たカレンバッハを次に待ち受けていたのが、太氣拳宗師・澤井健一先生との運命的な出会いだった。
欧州最強と謳われたカレンバッハは56歳になる今でも強靭な肉体を誇り、大学で教鞭をとりながら自らの修行に励んでいる。


 ヤン・プラス
 オランダ極真空手の草創期、フォーケンベーハー通りの有名なジョン・ブルミンの道場でカレンバッハの後輩として頭角を現したのがヤン・プラスである。
彼はその後、黒崎健時師範の下でキックボクシングを習い、帰国後すぐにキックのトレーニングと指導を始めた。これが後に世界のキック界を震撼させたオランダ目白ジム誕生の源だった。ロブ・カーマン、フレッド・ロイヤースを筆頭に幾多の名選手を育てた名伯楽ヤン・プラスもまた極真から育ったひとりである。


 ミッシェル・ウェドゥル
 第2回大会から三度全世界大会に連続出場を果たしたオランダの王者ミッシェル・ウェドゥル(ウェーデル)。
日本の極真空手ファンにとって最も印象深いのは、第4回大会でのブラジルのアデミール・ダ・コスタとの死闘であろう。
この時ウェドゥルは前の試合で左の上腕二頭筋断裂というアクシデントに見舞われるというハンデを負いながらの闘いだった。右手と足だけでブラジルの怪物に立ち向かっていったのである。この試合は現在も空手ファンの間に語り続けられる名勝負だった。極真の大会史の中でも最も激しい闘いだった。


ペーター・アーツ
K−1でのオランダ選手の活躍は群を抜いている。これまで優勝したのは、スイスのアンディ・フグ以外は全てオランダ選手である。
ペーター(ピーター)・アーツはこの大会で二連覇を果たしただけではなく、昨年も優勝し、三度K−1を制覇している強豪だ。
そんな彼も少年の頃は一般的なオランダの少年同様、サッカーを行なっていた。だが、スポーツ好きの彼は体操、卓球、テコンドー等にも挑戦していった。
15歳でタイ式ボクシングに出会い、キックの世界に没頭していった彼はデビュー以来8戦全勝(7KO)で9戦目であのアルネスト(アーネスト)・ホーストと対戦 し、判定負けを喫した。しかし、彼はその敗戦をバネに努力を重ね世界の桧舞台へと突き進んでいったのである。


 アルネスト・ホースト
 ペーター・アーツの因縁の相手がホーストだ。アーツより5歳年上の彼はオランダのトップファイターで、最初のK−1グランプリでキック・ヘビー級史上最強と謳われたアメリカのモーリス・スミスをハイキック一発で沈めたテクニシャンである。
その緻密な闘いぶりから「ミスター・パーフェクト」と称賛されている。一昨年には、極真のフランシスコ・フィリォとも死闘を演じ、K−1を制覇している逸材だ。


 バス・ルットゥン
  バス・ルットゥン(ルッテン)は悪夢のような少年時代を過ごしている。彼は重い喘息と全身の湿疹に苦しんでいた。そのうえ近視で厚いレンズの眼鏡をかけなければならなかった。当然イジメにあっていた彼だが、16歳になってからは皮膚病は消え、呼吸の問題も徐々に改善していった。
そして18歳からスポーツを始め、21歳で空手とテコンドーを覚えた。23歳で初めてタイ式ボクシングの試合に出て、破竹の勢いで勝ち進んでいった……。
 紹介した7人の他に、キックの帝王ロブ・カーマン、ムエタイの牙城を崩したラモン・デッカー、チャクリキ・ジム師範トム・ハーリンクの生の声を掲載している。
 この10人の格闘家の生きざまとオランダ格闘技の歴史を見ることによって、読者にはオランダの強さの秘密と日本から学んだ武道精神の深さが視えてくるはずだ。ページのTopに戻る

柳生十兵衛・堀部安兵衛〜         

山岡荘八  著         吉行淳之介
定価505円+税
朝日新聞社
( 03−3545−0131)

 『日本剣客伝』は全五巻で朝日文庫の一シリーズとして出版されている。『週間朝日』に掲載されたもので、塚原卜伝・上泉伊勢守、宮本武蔵・小野次郎右衛門、柳生十兵衛・堀部安兵衛、針谷夕雲・高柳又四郎、千葉周作・沖田総司という剣客を海音寺潮五郎など10人の著名な作家がその一人一人を描いている。
 『柳生十兵衛』山岡荘八・著 
 柳生石舟斎宗巌の孫として生まれた十兵衛三巌の生涯を、山岡荘八は家康から始まる徳川幕府の泰平維持の基礎を固める人柱としての観点から描いている。
 上泉伊勢守秀綱の新陰流に、祖父石舟斎の無刀取りという心技両面の精緻が加わり、それが父宗矩に至って征夷大将軍の治国の兵法、「御流儀」として内容を整えてきたという柳生新陰流。
 父の宗矩が嫡子十兵衛に期待したのは石舟斎から宗矩、宗矩から十兵衛という、柳生新陰流兵法の継承だけではなかった。
 戦国の世が終わり、平和な江戸時代の土台を完成させるために生涯をかけた宗矩の嫡子として生まれた十兵衛の悲劇は、まさにこの出自にあったのである。
 《武という文字は戈(戦)を止めると書き、平和を保つために武はあるのだと、そこまでは大抵わかっていながら、生兵法としての兇器は当時の巷に氾濫していた。
 石舟斎が「無刀取り」の工夫を凝らしたうらにもこの嘆きがあった》 宗矩は「どうすれば、兵法がそのまま、人間の教養に変わるであろうか?」と、四十から五十へかけて、新しい世作りの夢に憑かれていたという。
 《「平和が欲しい!」
 それは天下を掌握し得た徳川家だけの願望ではない。戦国以来の庶民の大多数の希いであり、その願望の流れと共に動いたところに徳川幕府成立の要因はあった》
 この希いは戦後の「平和」が当たり前な日本に生まれ育った私たちにはすぐにはピンとこないが、戦乱の世に苦しんだ人々のことを想えば容易に想像がつくはずだ。
 《当時、天下屈指の武芸家、兵法家は決して柳生一族だけではない。技法だけを問題にすれば、よりすぐれた武芸者があったかも知れない。そして、それ等の「剣客」たちが、兵法の専門家として諸大名に召抱えられる場合の封禄は、大抵二、三百石……最上、五百石が相場だった。 その中から、何故に柳生新陰流だけが、一万二千五百石という大禄を給されて、諸侯の列にまで加えられたか? それを先ず明らかにしなければ、十兵衛三巌の数奇な生涯の謎は解けない。いや、十兵衛だけではない、十兵衛の異母弟刑部少輔友矩もまた、父宗矩の願望の犠牲になって二十七歳の若さで世を去っているし、その後、十兵衛のあとは飛騨守宗冬に継がれたとは云え、間もなく血縁の世襲は断たれて、大名としての江戸の柳生家は代々人物本位の養子相続になっていった。
 云わば宗矩の悲願が子々孫々の安穏な世襲を封じ去ったのだと云ってもよく、その意味では代々将軍家のお手直しという兵法の師にあげられていながら、徳川家と柳生家の関係は、世のつねの幸福さからは絶縁されて、法を継ぐ禅寺院的なきびしいものになっていった。
 そうしなければ庶民の上に君臨する権力者、将軍家の指導は出来ないと考えたところに、柳生一族の……とりわけ宗矩の凄まじい士魂と良心があり、十兵衛三巌の生涯は、その第一の犠牲の飛沫を真向から浴びて立つことになった……と、私は解している》
 十兵衛の独眼伝説は有名だが、講談や尾張の柳生家の口伝で伝えられているこの説を山岡荘八は剣の技術面から否定している。この口伝について、以下のように説明している。 《少年の頃「燕飛」の稽古で、その第四の「月影」の打太刀を宗矩から習うとき、父の使太刀の「月影の打ち」の飛雷を打ちおろす木太刀の太刀先が、七郎(十兵衛)の上段入り身のふせぎの太刀の上を越して右眼に入ったため、というのである。 これも私は信じない。何よりも、新陰流は、上泉伊勢守秀綱以来、稽古の時には韜(ふくろしない)を用いて木太刀を使っていない。
 木太刀の試合は、そのまま生命にかかわるからだ。一々生命にかかわるのでは技法の練磨に欠けることになる。韜は割竹をなめし皮でつつんで柄はつけず、その柔軟さにおいて現代の竹刀以上だ。
 それに、信頼出来る資料や記録に、十兵衛が独眼であったという記録は一つもない。肖像として残っている
ものにも、ちゃんと両眼は描かれている。
 したがってこの独眼伝説は、狷介不覊とか強剛とか、梟雄とか云われている性格同様、彼の行動の謎に附加された後人の創作であろうと私は思う。
 或いは一個独得の眼識をもった人物という意味の記述が「独眼――」という連想になって誤られたのかも知れない》
 七郎(十兵衛)は数え年十歳の時、将軍秀忠の謁見を受けている。それから二年後に母を亡くし、その時にある異常な逸話を残している。
 その解決に困り果てた父宗矩が考えた策が「鈴虫」だった。そしてこの事件で七郎の守役として付けられたのが二十歳の服部丑之助、後の荒木又右衛門である。
 十三歳から七郎は竹千代(後の三代将軍家光)の側近として登城することになる。その後、家光のある事件を契機に二十歳の十兵衛は「発狂」
を理由に江戸城を出、その後十二年間、ぷっつりと消息を絶つこととなる……。
 大山倍達総裁が愛した講談の世界であまりにも有名な剣豪柳生十兵衛の生涯は、武と人間の生を考える上で、非常に興味深いものがある。そして、それぞれを文豪が描いたこの剣客シリーズ、ご一読をお薦めする。ページのTopに戻る

(がっそう)葬
         杉浦日向子 著定価447円+税
筑摩書房
( 03−5687−2687)

 《ハ・ジ・マ・リ

 「……このきせるはちょいと面白いね、アノー上野の戦争の時分にゃ随分驚いたね、エエ!?ウン、雁鍋の二階から黒門へ向って大砲を放した時分には、のそのそしてられなかったァな、ウン、買いたくねぇきせるだな。」
 ご存知志ん生の火焔太鼓のまくらです。天道干の道具屋をひやかす客の世間話の中に上野戦争がひょっこり出て来て、とても不思議なそして身近な親しみを感じました。

『合葬』は上野戦争前後の話です。
描くにあたり、この志ん生のまくらを終始念頭に置くようにしました。四角な歴史ではなく身近な昔話が描ければと思いました。
 彰義隊にはドラマチックなエピソードが数多くあります。勝海舟、山岡鉄舟、大村益次郎、伊庭八郎、相馬の金さん、松廼家露八、新門辰五郎、関わるヒーローもたくさんいます。が、ここでは自分の先祖だったらという基準を据えました。隊や戦争が主ではなく、当事者の慶応四年四月〜五月の出来事というふうに考えました。この選択に悔はありませんが、好結果となったかどうかは心もとない限りです。
 江戸の風俗万般が葬り去られる瞬間の情景が少しでも画面にあらわれていたら、どんなにか良いだろうと思います。 著者 》

 「合葬」というタイトルがまずスゴイ。
 幕末というドトーのわずか数年間の出来事は、今まで実に多くの人々によって実に多くのヒーローに託されて、何やらとてもカッコよさげに書かれてきた。
 だが、杉浦日向子は、ごくフツーの人の目線で長い長い日曜日であった「江戸の全てが葬り去られる」瞬間の風景を切り取ってみせた。
 上野戦争の名もない彰義隊の話である。
 彰義隊は当時「情人にもつなら彰義隊」と言われたように、旗本の年若い次三男坊が多く白袴の凛々しい姿にファンも多い。
 しかしこれは、そんな華々しいヒーローの活劇ではなく、ただ淡々と市井の日常をつづっているだけだ。
 今でも上野あたりでの“先の戦争=上野戦争”(第二次世界大戦ではなく)という図式が、思わず納得させられてしまう。
 因に会津では“先の戦争”というと会津落城を象徴とするこの戊辰戦争のことを言う。
 江戸が単に歴史の教科書に書かれている暗記すべき符号ではなく、私たちが生きている今この時代の地続きであったと感じられる話なのである。
 今回紹介した本は武術の実際とは離れているが、明治以降の急速な西欧化によって失われてしまった感のある武術を捉えかえす上で、一見に
 値するのではないかと思う。最後に作者の後書きを記して本稿を終える。

 《日曜日の日本 杉浦日向子

 江戸時代というと何か、SFの世界のように異次元じみて感じられます。
 自分の父祖が丁髷を結ってウズマサの撮影所のような町並を歩いている姿など実感がわきません。がたしかに江戸と現代はつながった時の流れの上にあり、丁髷の 人々が生活した土地に、今わたしたちもくらしています。遠いところの遠い昔の話のようでも、この場所でほんの百二十年前の父祖たちの話なのです。

 私の大好きな、そして大切な篠田鑛造氏の著書の中に「明治維新の新体制は、極めて強圧なものであった。どう強圧であったかは、江戸期の旧文物を片端から破砕 して、すべて新規蒔直しといった時代を建設したからである。」とあります。江戸期の風俗・文化に触れる時、この百二十年間の猛進は何だったのだろうと、ふと 思います。
 藤村が「夜明け前」を著わしたように、近世つまり江戸は〈暗黒の時代〉のように思われがちです。芳賀徹氏はこれに対し、近世が日曜日であり、近代=明治維新 は〈月曜日の夜明け〉だとたとえています。私はこの云い方がとても好きです。

 日曜日の日本に生きた父祖たちに会いたい、縁側でお茶でもすすりながら話をしたいと思っています。
 私がこういう作業をしていく原動力は、この〈想い〉に他なりません。
 〈日曜日の昔話〉、これからも拾い集めていきたいと思っています。》

【注】この漫画は1982〜83年に『ガロ』に掲載され、青林堂から発売されていたが、今は筑摩文庫の一冊として販売されている。本稿は青林堂
版を基にしてる。
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 高野佐三郎 剣道遺稿集           堂本昭彦 編・著定価2,796円+税 スキージャーナル( 03−3353−3051)

「怪力」で知られる若木竹丸翁が入滅した。二十世紀最期の年が始まったばかりの正月三日のことだった。
 若木翁は明治四十五年一月二十日に生まれ、未だ日本にボディビルディングやウェイトリフティングなどという概念が根付いていない時期に、
その驚異的な練習で自らの肉体を改造し、重量挙げの世界記録を作るなどの活躍で勇名を馳せた怪物だ。
 大山倍達総裁との親交もあり、極真空手にも少なからず影響を与えている。また、その著書『怪力法並びに肉体改造体力増進法』(復刻版/
壮神社)という大著でも知られており、黒崎健時師範が『私は見た!昭和の超怪物』(スポーツライフ社/絶版)で紹介しているように、勇猛果敢な人で、多くの格闘家が影響を受けている。……若木翁のご冥福をお祈り申し上げます……。
 また一人英傑が去り、思い出だけが頭の内を駆け巡っている。澤井健一先生が亡くなり、梶原一騎氏、大山倍達総裁、芦原英幸氏と、一時代を築いた方々が居ない世界に私たちは生きている。淋しい限りである。
 何やら暗い出だしになってしまったが、本稿の本題に入ろう。今回紹介するのは、剣道の世界で著名な高野佐三郎範士の遺稿を編纂したものである。
 高野佐三郎は明治・大正・昭和の
三代に渡ってわが国の剣道界に大きな足跡を残した剣士で、特に東京高等師範学校教授として中等学校の剣道専門教師を養成し、学校剣道の発展に寄与したことの功績が大きい。
 文久二年(一八六二)六月十三日、武蔵国秩父郡大宮宿(現在、埼玉県秩父市内)に生まれた佐三郎は、小野派一刀流の剣術師範の祖父佐吉郎(苗正)に胎児の頃から教育を受けた。三歳になると形の稽古を受け、五歳にして小野派一刀流五十六本の組太刀を祖父とともに藩主の前で演じた。佐吉郎が孫佐三郎に施した稽古方法はユニークなものだった。道場の床に大豆を撒き、草履をはかせて稽古をさせた。膝まで川に浸し、水の中で闘わせた。布で目隠しをし、闇試合をさせた……など。
 その稽古の甲斐あって、十歳の頃にはすでに十五、六歳の者と試合をしても負けることがなかった。「秩父の小天狗」ともてはやされるようになった十五、六歳の頃、大会があると聞けば、遠く栃木、千葉あたりまで出かけて行って試合をした。そんな佐三郎に大きな転機を迎える事件が起こった。明治十二年四月、埼玉県児玉郡賀美村の陽雲寺境内で開かれた「上武合体剣術大会」で屈辱的な敗北を喫したのである。この日、祖父佐吉郎の代理で出場した佐三郎は、群馬県安中の岡田定五郎の激しい突きの連続に喉笛を破られ、袴を鮮血で染めて昏倒した。わが家に帰り着いた日の深夜、彼は秩父を出奔し、東京の「習成館」に柴田衛守を尋ね、山岡鉄舟を紹介
される。かくして荒稽古をもって知られる山岡道場での約三ヵ月におよぶ精進が始まったのである……。その後の佐三郎の剣道人生は本書を読んでの楽しみとして、ここでは彼のエピソードと遺稿をいくつか紹介しよう。

 《私は臆病な子供だった
 私はお恥ずかしながら八つ九つ迄は非常な臆病者で、夜になると何処へも行けなかった。私は昼は随分あばれたが、夜になると怖くて外に出られない。
家から五丁許り離れた所に秩父神社があって、そこまで行くには森の中を越えねばならず、更に石段をあがって社前に行くのである。その拝殿に大きな鈴が釣ってある。その鈴を鳴らしに行け。そして胆力を養えと修業を勧められたが、昼はいゝが、夜は怖くて怖くて、布団を被って居ってどうしても打ちに行けなかった。(後略)》

《剣道五行の構え(前略)五行の構えとは、上段、中段、下段、八相、脇構えの五種で、之れを天、地、人、陰、陽、又は木、火、土、金、水の五行に配し、五行の構えと名付けるのであります。
 (この後、上段から脇構えまで姿勢と精神を解説し、更に刀の持ち方、足の踏み方、目付けを説いている)》

 《眼 眼の着け方は大体に於いて敵の顔面に着眼するのであるが、視線を一定させず、恰も遠山を望むが如く、敵の頭から爪先までを一目で見、敵が接近するとも、遠方を見ると同じ見方で見るのである。若し敵が近い時に近く見れば敵の顔、拳等一小範囲の外は見えないのであるが、この見方ですれば敵の全体を一目で見、眼球を動かさないで、敵の両脇までも見得るのである。そして、眼の着けた所に、特に重きを置く個所が二つある。それは一つは剣尖であって、一つは拳である。
 この二点は真っ先に運動の現われる部分であって、敵が下段であれば動作の起こりが先ず剣尖に現われ、上段八相の如き場合にあっては拳に現われる。
此の二点に注意し、早く動作の起こりを察して之れを押さえ、又は先を撃つ等適宜の処置に出ず可きである。
古来、之れを「二つの目付け」と称して居るのである。
 凡て撃たん突かんとする意志及び怒気・恐怖心・狐疑心等悉く眼に現わるゝものであるが、殊に敵よりも己れの未熟なる際は、忽ち我が眼の動きによって看破さるゝものである。心すべきである。(中略)
 故に、常には全体を見、必要に従って一部分を見、復た忽ち全体を見るの見方に立ち帰ること、恰も中段を常の構えとするけれども、敵に隙
があれば直ちに之れに撃ち込み、撃てば忽ち元の中段の構えとなるが如くにする。(後略)》

 彼の精神論は一般論に終始している嫌いがあるが、技術面では空手修行者にとっても大いに学ぶ所がある。

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板垣恵介の格闘士烈伝 板垣恵介・著定価1,400円+税 徳間書店( 03−3573−0111)

《そしてその生命体は超絶な力に裏打ちされている。
 例えば、八巻建志。95年のこと、俺は彼の蹴るミットを持つ機会があったんだ。あの踵落としってやつ。
俺は分かってなかったね、現役極真世界王者の蹴りの威力を。それこそ、蹴りの軌道の延長線上にある体が、
蹴りの入った角度でグシャッと潰されてしまったのが分かるんだ。昔、引越しのバイトをやっていたときに
冷蔵庫が倒れてきたのを思い出したよ。いや、倒れてきたなんてかわいいもんじゃない。冷蔵庫を二階から
落とされたようなもんだ。八巻の蹴りには、それに匹敵するほどの衝撃が感じられた。》
 これは本書のプロローグの一節を抜粋したものだが、この表現を見ただけでも彼の強さへの憧れが滲み出
ている。さらに彼の格闘技に対する想いと位置を知る上で、以下に目次を列挙しよう。


[プロローグ]人として生まれ 男として生まれたからには 誰だって一度は最強を志す
[第1章]どきなよ、チビ!
[第2章]女 子供でも 大の男にケンカで勝ち得る これがそもそもの空手術だ
[第3章]踊りじゃないぞッ
[第4章]ワルいけど ボクシングは格闘技として あまりにも不完全すぎる
[第5章]キサマ等のいる場所は既に 我々が2000年前に 通過した場所だッッッ
[第6章]しょせんは スポーツ・マンじゃのう!
[第7章]行住坐臥すべて闘い
[第8章]どーせやるンなら 真剣やろうよ!!
[エピローグ]俺がやってきた修行の全ては そう……!! 兄さん!!
あなたを超えるためだった!!


[あとがき]世界最強って、あんなにまでして欲しいものなの
 最近漫画をほとんど読まなくなった私は、送られてきた本書を見て初めて彼が『バキ』や『餓狼伝』を書いている漫画家だと知った。
 その分余計な先入観が無く読めたが、最初は小林よしのり風の言い回しにイラついた。また、プロレスから出発した多くの格闘技ファンに見られる幻想や格闘技感のズレ等々馴染めないところがあったが、読み進むうちに彼の宇宙に引き込まれていった。
 それは男なら誰もが幼い頃から思い描いたであろう“最強への道”を、自己の体験を交えながら綴っているからだ。無論、私との格闘技に対する位置の違いや武術への想いの差異からくる違和感を常に伴ってはいたが、少なくとも彼の想いは読者にストレートに伝わるに違いない。
 読み終えて、こういう見方、考え方もあるんだな、と了解することが
出来た。また最近、格闘技マスコミでもてはやされているプロ格闘技に馴染めない私にとっては、己れの武に対する位置や原点を再考する上で、大いに刺激を受けた一冊と言える。
 《村田英次郎−−俺はあなたを忘れない
 具志堅用高、渡辺二郎、この二人が実力的には、日本人で最も強いボクサーだったんじゃないかな。強さでいえば。
 素質で言ったら、つい先日引退した辰吉丈一郎が近年ではダントツだろう。しかし、俺は残念ながら、彼に心の強さを感じることはなかったんだ。
 心に残っている選手なら、相手の足にしがみついてまでダウンを耐えた輪島功一と、鮮烈な印象だけを残して去っていった大場政夫。そして
……、村田英次郎。
 世界王座に4度挑戦したのかな。その時代を代表するバンタム級王者、ルペ・ピントールとジェフ・チャンドラーに挑戦し、2回連続引き分け。
このときばかりは、なぜ地元判定がないんだと憤慨した。あの2試合は、村田が勝っていたといっても、誰も文句を言わなかったに決まっている。
 ピントールなんて、あのカルロス・サラテを破ったチャンピオンだよ。
 村田英次郎、なんでお前が世界チャンピオンになれなかったんだ。彼より、ボクサーとしての実力、完成度とも劣る者でも、世界チャンピオンの座を射止めた選手は、いくらでも存在する。
 その多くのチャンピオンより、村田英次郎はチャンピオンに相応しい男だった。ボクサーとしての完成度は、ついさっき褒め称えたロイヤル小林より、全く上だ。
 外見はぜんぜん強そうじゃない。男前だけど、青白い顔して。こんな青白い奴が、大丈夫か? って観客に思わせてしまうような青年がね、
あのピントールと、どっちがチャンピオンか分からない試合をやってのけてしまった。(中略)
 ジュニアバンタムに落とせば、あるいはジュニアフェザーに階級を上げれば、いつでもチャンピオンになれるといわれていた村田は、世界のベルトを巻くことなく、リングを降りた。2度の引き分けのあと、世界戦2連敗。結局、彼はバンタム以外の王座に挑むことはなかった。
 村田英次郎。無冠にして最も世界レベルに達していた日本人ボクサー。
彼がボクサーを志したのは、『あしたのジョー』の矢吹丈に憧れていたからだそうだ。減量に苦しみ、苦しみぬいた矢吹丈が戦っていた場所が、バンタム級だった。
 世界チャンピオンでもない、世間の記憶からも末梢されている一人のこういうボクサーがいたことを、俺はどうしても書きとめておきたい。(後略)》
 小見出しが嬉しいね。こんな気持ちで格闘技を見、漫画を描いている板垣恵介という男の存在が嬉しい。
 劇画原作で一時代を築いた梶原一騎は、強さに憧れ、常に誰が最強かを少年のように追い求めて、旋風のように逝った。しかし板垣恵介には、強さへの憧れだけではなく、格闘技を通して人間としての生きざまを追求し続けて欲しい。そして、読者にも。そこにこそ武術の存在意義があるはずだから……。


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「武道のススメ」盧山初雄・著定価1,524円+税   気天舎( 03−5976−0621)

 《強さと優しさを持って世の中を歩くこと、これが本来の意味での武道だと思う。
 武というのは、矛(武器)を持って歩むようすを表すと一般的には言われているが、私はこう解釈している。すなわち、「武道とは矛を止める道である」と。》
 本書「第8章―武道とは何か」の冒頭でこう語る盧山初雄師範。
 盧山師範は言うまでもなく、第5回全日本空手道選手権優勝、第1回全世界空手道選手権準優勝など輝かしい実績を誇り、現在極真会館最高顧問として国内並びに海外での指導に多忙な日々を送りながらも、自己の修行に励んでいる空手界の重鎮である。
 まず、盧山師範の武道への思いを、本書の目次で見てみよう。    
武道のススメ―粗大ゴミに甘んじているオヤジへ/オヤジの身勝手が家庭内暴力を生む/武道のススメ
初心を忘れるな―強さの中に心の安らぎがある/小さい頃からの夢/自分の信念を貫け/常に一から出直せ/身体の中に財産を築け/武道の持つ神秘性/空手の極意とは何か/死ぬまで初心であれ      
良師を選べ―日々の地道な稽古の中から新たな出会いが生まれる/失われた人間の能力を取り戻す/正しい術には正しい心が宿る/武道を学んで安らかな人生を送る
無我夢中で修練せよ―千日をもって初心とす/バカに成り切れ/無我夢中で稽古せよ/無心について/信念を持ってその道を邁進せよ
敗北から生まれる勝利―本当の稽古は挫折の後/強さのバロメーターは優しさの中にある/イジメる側に強い人間はいない/恥をかくのは当たり前
技は心の中から生まれる―威力はスピードにある/心の運動量が技を決める/心の中から技が生まれる/肉体的精神を磨け
武術修行と人生修行―天の試練に感謝して武術に励め/苦労が足りない全日本チャンピオン/武術修行と人生修行は車の両輪/武術一本にかける情熱を持て/試練に立ち向かえば結果はついてくる
武道とは何か―強さと優しさを持って社会を歩く/武道と格闘技/自分の道を全うせよ/武道は人間として生きる道
師の教え―空手革命(大山倍達総裁の教え)/武にかける情熱(澤井健一老師の教え)/武道の社会的使命(中村日出夫先生の教え)
 ◎さらに武道のススメ
 この目次を見ただけで空手修行者の心得や進むべき道が視えてくる。
さらに盧山師範が自己の経験に基づいて懇切丁寧に解説を試みており、全武道家・ファン必見の書といえる。
 ひ弱だった少年・盧山初雄が極真空手に出会い、日々鍛練を重ねることによって成長し、さらに三人の師(大山倍達総裁、澤井健一老師、中村日出夫先生)の教えに導かれ、生涯を空手道にかけている、強い男の哲学と心情が如実に描かれている。
 孫子の兵法に「彼を知り己を知れば、百戦して殆からず」とあるが、盧山師範はこの言葉より、「百戦百勝は、善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは、善の善なり」という言葉のほうが重要だと主張する。この意味は「百たび戦って百たび勝ったとしても最善の方法ではない。戦うことなく敵の兵を屈伏させるのが最善の方法である」ということである。
 武道の世界でも同様に「戦わずして勝つ」ことが最善であり、日々空手の術を学ぶことによって心身を鍛練し、自己を完成させることを目的としている。
 また健全な肉体を創れば、健全な精神が育まれる。さらに自己に厳しい修練を課することによって、人を思いやる心が生まれる。厳しい稽古を耐え抜けば、強い精神ができる。その不屈の精神をもって社会に貢献するのが、武道の使命だ。
 盧山師範は、この立場から武道を学ぶ喜びと、武道を学ぶ人の在り方を考え、すべての人々に向けて「武道のススメ」を記している。
武術の技は永い時間の中で、無数の先人たちの体験と修練などの積み重ねによって、また後進の手によって絶えず研究、改良され、延々と今日まで受け継がれてた。そうすることによって、人間の肉体と精神を極限まで鍛え、武道として昇華されてきたのである。その武を自分の身体の中に受け継いでいる師匠に学ぶことが重要である。しかし、そういう良師に出会うことはたやすいことではないし、見抜く眼も容易に身につくものではないだろう。
 盧山師範は、日々の地道な稽古の大切さを説き、良師との出会いをこう語っている。
 《こればかりは、運とか縁とかが大きな要因になる。ただ、その人が真剣に武道を捉え、真剣にやることによって、新しい縁が生まれる。常に初心を忘れず、努力精進することによって、新たな出会いが待っているはずだ。そう私は信じている》
 確かに運、縁が大きく左右するが、盧山師範の言うように真剣に事にあたれば、道は開けるはずだ。何の分野でもそうだが、本物はほんの一握りしかいない。だが、常にその道を求め、アンテナを張り巡らせ、頂上めざして歩き続ければ、必ず出会うはずだ。
さらに「武道とは何か」を探求する上で、盧山師範の修行過程を描いた彼の自伝書『空手とは何か―我が生涯の空手道』(気天舎)も併読することをお薦めしたい。
 《最初は専門的にやる必要はない。健康のため、美容のため、あるいは子供の躾のためでもいい。まず武道を始めてほしい。道場に来て稽古を見るだけでも大きな刺激になると思う。さらに道場で汗を流し稽古をすることによって、健全な肉体をつくり、健全な精神を持って社会を、人生を歩んでいただきたい。そうすることによって、少しでもこの世の中がよりよい社会になることを私は願っている》

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身体運動文化学会・編定価2,500円+税 昭和堂 ( 075−761−2900)

本が売れなくなったと言われて久しい中、武道・格闘技の分野は意外に健闘しているようだ。しかし、他分野からの進出組を含め、粗製濫造の感がある我が武道出版界。しかも、何やら宗教的な匂いのする「武道書?」がバカ売れしている現状に危惧を感じざるを得ない。
 武術修行者にとって大切なことは、良師に出会い、日々の鍛練を通して技を磨き、強さを身につけることであろう。そうすることによって人としての生きる道を見いだすことに意味があると私は想っている。
 「触れずに飛ばす」とか「科学的」といった類いの幻想に騙されてはいけない。人間の肉体の営為はそんな科学や宗教で簡単に解説できるようなものではない。何の為の修行かを自問すれば、自ずと答えは視えてくるはずなのだが……。
 今回紹介する『武と知の新しい地平』は、新聞の書評欄に載っていた武道関連書を探していて、たまたま歴史書のコーナーで見付けたものである。
《本書は、一九九七年七月に、ハンガリーで開催された第三五回ICANAS(International Congress of Asian and North African Studies アジア・北アフリカ研究国際会議)においておこなわれた武道学シンポジウムをもとに、先生方に発表原稿を加筆・修正していただいて作成したものである。
 ICANASは、第一回の会合が一八七三年にパリで開催されて以来、三年から四年ごとに世界各地で開催されてきた東洋学研究では世界でもっとも権威のある国際会議である。
一九八三年には日本で第三一回の会議があり、前回は一九九三年、第三四回会議が香港で開かれた。
 今回の第三五回会議は、ハンガリーの首都ブダペストにおいて、ハンガリーの東洋学会であるケーレシ・チョマ・ソサイアティーとエォトヴェシ・ローランド大学(通称ブダペスト大学)が主催機関となり、ハンガリー大統領の後援を得て開催された。
 本シンポジウムは、日本学セクションの中に設けられ、日本学における武道学という位置づけで、最新の武道学研究の発表がおこなわれた。
メンバーとしては、高橋進先生を代表に身体運動文化学会を母体とした一二名(日本側九名とハンガリー側三名)の研究者で組織された。内容としては、統一テーマとして「武道研究―その意味と展望―」を掲げ、高橋進先生の基調講演からはじまり、順次、発表と討論がおこなわれた。
会場からは、ハンガリー人の研究者等から思いもよらないような専門的な質問が出され、武道学研究の関心の高さとヨーロッパにおける日本学研究のレベルの高さを垣間みた気がした。》―〈あとがき〉より抜粋―
 掲載されたタイトルを以下に列記することによって、執筆者の問題意識を探ってみよう。
1.日本の武道と伝統文化 /高橋進A近世武芸における心身観   /前林清和
2.「習」と型の相関  /加藤純一
3.弓術における技と心―日本の弓射 文化の特性―    /入江康平
4.刀剣観にみる日本人の精神性/酒井利信
5.武士の思想についての若干の考察―二つの心法論―  /山地征典
6.東アジア世界における「士」の諸相について     /佐藤貢悦
7.佐久間象山における武の精神と砲学          /小林寛
8.松平定信の武芸観とその政策/菊本智之
9.ヨーロッパにおける武道理解/サボー・バラーシュJ日朝関係史における日本の刀剣技/大石純子
10.ヨーロッパにおける東洋的概念指 導の問題―剣道指導を通じて―/阿部哲史
◎ICANAS武道学シンポジウム
 座談会
 執筆者はいずれも大学等で教鞭をとる研究者だが、「武道学研究が、プレイ武道の人々と離れてはいけない」という立場からの発言であり、それぞれ非常に興味深い内容を記している。
 本稿では誌面の都合上1.「日本の武道と伝統文化」と2.「近世武芸における心身観」の一部を紹介しよう。
 1.では、《東アジアにおける文化形成の基層には、「道」の思想があって、とくに日本は、それが学問・技芸などの文化の成立や完成に貢献するところが大きかった》として、中国の漢字の解説書や儒家と道家の思想から「道」の意味をひもとき、日本における武術と「道」の文化を考察している。
 まず、道のもっとも古い意味は、
「人がひとすじに踏み歩いて、それかがおもてに、かたちをなしてあらわれたもの」と記されているとしている。そして、さまざまな人が、さまざまの「みち」を歩む。その意味を全体的・抽象的にまとめて、「道は、あらゆる人がそれに拠り従うべきもの、人の生き方のすじみち」とされるようになったのである。
 さらに「武」を考える上でもっとも重要なことは、「人をも含めて、もの・ことは、たがいに相待ち合って存在し、ひとつとして孤立しては存在しない」という思想だ。
 2.では、西洋の《デカルト的心身二元論は、私たちが日常経験する心や身体、さらに心身の相関を説明することができない》とし、《わが国の武芸は、まさにこのような「生きた人間」を実践を通じて体験し、それをもとに、武術という技を中核とした身体と心の問題をみきわめて体系化し、さらにそれを「人の道」にまで昇華させてきた》との観点から武芸と心身観を記している。武術を東洋・日本の文化として捉え、武道学として確立しようとする研究者が、実践者との共同作業を提起している本書を心より推奨したい。また、実践者の奮起を促すとともに次の言葉を贈る。
 「心こそ 心まよはす 心なれ心に 心 心ゆるすな」

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『新訂 孫 子』 金谷 治 訳注定価500円+税岩波書店 (03−5210−4000)

『七書』として中国の兵書の代表とされるものに、『孫子』『呉子』『司馬法』『尉繚子』『李衛公問対』『黄石公三略』『六韜』がある。 
それら『七書』の中でも『孫子』十三篇は、中国の最も古い、最もすぐれた兵書と云われている。『孫子』は日本にも他の書物同様、古くから伝わり、とりわけ戦国期以降では極めて広汎な影響を及ぼした。わが国の兵法もまたこの書を抜きにしては、その発展のあとを辿ることはできない。
 戦国の武将・武田信玄で思い浮かぶのが「風林火山」であるが、この元になっているのも『孫子』軍争篇三の一節である。
 『孫子』の作者は、春秋時代に呉王の闔廬(前五一四―四九七年在位)に仕えた孫武だとされているが、諸説がある。
 『孫子』の内容は十三篇(1.計篇2.作戦篇3.謀攻篇4.形篇5.勢篇6.虚実篇7.軍争篇8.九変篇9.行軍篇10.地形篇11.九地篇12.火攻篇12.用間篇)に分かれている。
 本書は古代中国の戦いの術を記しているのだが、それだけではなく、時代や場所を越えて、人生の在り方をも示唆する深い思想的なものがみられる。また武術修行者にとっても大いに学ぶべきものがある。
 極真会館最高顧問・盧山初雄師範もまた、その著書の中で以下の言葉を紹介している。《彼れを知りて己れを知れば、百戦して殆うからず。》(謀攻篇五、地形篇五)《百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり。》(謀攻篇一)
その内容は師範の著書『武道のススメ』(気天舎)を参照して頂くとして、ここでは更に本書の内容を誌面が許す限り紹介しよう。
《兵とは詭道なり。故に、能なるもこれに不能を示し、用なるものこれに不用を示し、近くともこれに遠きを示し、遠くともこれに近きを示し、利にしてこれを誘い、乱にしてこれを取り、実にしてこれに備え、強にしてこれを避け、怒にしてこれを撓し、卑にしてこれを驕らせ、佚にしてこれを労し、親にしてこれを離す。其の無備を攻め、其の不意に出ず。此れ兵家の勢、先きには伝うべからざるなり。》(計篇三)
 この意味は《戦争とは詭道――正常なやり方に反したしわざ――である。それゆえ、強くとも敵には弱く見せかけ、勇敢でも敵にはおくびょうに見せかけ、近づいていても敵には遠く見せかけ、遠方にあっても敵には近く見せかけ、[敵が]利を求めているときはそれを誘い出し、 [敵が]混乱しているときはそれを奪い取り、[敵が]充実しているときはそれに防備し、[敵が]強いときはそれを避け、[敵が]怒りたけっているときはそれをかき乱し、[敵が]謙虚なときはそれを驕りたかぶらせ、[敵が]安楽であるときはそれを疲労させ、[敵が]親しみあっているときはそれを分裂させる。 [こうして]敵の無備を攻め、敵の不意をつくのである。これが軍学者のいう勢であって[敵情に応じての処置であるから、]出陣前にはあらかじめ伝えることのできないものである。》
 これは集団戦での常道を言っているが、ケンカでも同様であり、試合においても充分応用できる基本と言える。無論、先に自己鍛練の裏付けがあっての戦術であることは言うまでもない。
 《故に勝を知るに五あり。戦うべきと戦うべからざるとを知る者は勝つ。衆寡の用を識る者は勝つ。上下の欲を同じうする者は勝つ。虞を以て不虞を待つ者は勝つ。将の能にして君の御せざる者は勝つ。此の五者は勝を知るの道なり。故に曰わく、彼れを知りて己れを知れば、百戦して殆うからず。彼れを知らずして己れを知れば、一勝一負す。彼れを知らず己れを知らざれば、戦う毎に必ず殆うし》(謀攻篇五)
 この意味は《そこで、勝利を知るためには五つのことがある。[第一には]戦ってよいときと戦ってはいけないときとをわきまえていれば勝つ。[第二には]大軍と小勢とのそれぞれの用い方を知っておれば勝つ。[第三には]上下の人々が心を合わせていれば勝つ。[第四には]よく
準備を整えて油断している敵に当たれば勝つ。[第五には]将軍が有能で主君がそれに干渉しなければ勝つ。
これら五つのことが勝利を知るための方法である。だから、「敵情を知って身方の事情も知っておれば、百たび戦っても危険がなく、敵情を知らないで身方の事情を知っていれば、勝ったり負けたりし、敵情を知らず身方の事情も知らないのでは、戦うたびにきまって危険だ。」といわれるのである。》     
 これも集団戦での常道を言っているが、個人戦でも同じである。
 《乱は治に生じ、怯は勇に生じ、弱は彊(強)に生ず。治乱は数なり。勇怯は勢なり。彊弱は形なり。》
(勢篇四)
 この意味は《混乱は整治から生まれる。おくびょうは勇敢から生まれる。軟弱は剛強から生まれる。[これらはそれぞれに動揺しやすく、互いに移りやすいものである。そして、]乱れるか治まるかは、部隊の編成――分数――の問題である。おくびょうになるか勇敢になるかは、戦いのいきおい――勢――の問題である。
弱くなるか強くなるかは、軍の態勢――形――の問題である。[だから、数と勢とに留意してこそ、治と勇と強とが得られる。]》
 空手で考えると、剛強な「体」を日々の鍛練からつくり、組手で勇敢な「心」を養う。その拠り所として正しい「技」を身に付けることが肝要となる。
では、具体的にどうすれば良いのか。それは盧山師範の言う型の重要性である。型の中には全ての要素が含まれている。正しい突き、蹴り、運足、そしてスピードとタイミングがあってこそ華麗な型が表現出来る。この型練習の中にこそ強さの秘密が隠されていると思うのだが……。
 いずれにせよ、『孫子』は修行者にとって一読に価する最古の兵書だ。

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『嘉納治五郎〜私の生涯と柔道〜』   嘉納治五郎 著定価1800円+税日本図書センター(03−3947−9387)

 横浜・山下公園に隣接する港に、
永い役目を終えて停泊している日本郵船氷川丸。この船で海外に赴き、あるいは帰国の途についた多くの先達。その様々なドラマに思いを巡らし、中華街で舌鼓を打つ……。
 一九三八年(昭和一三)三月、嘉納治五郎は日本オリンピック委員主席代表として、七十九歳の老体に鞭打ってカイロ会議に出席した。
嘉納先生の一方ならぬ努力の結果、第十二回オリンピック東京大会の開催がIOC総会で確認されたのである。重責を果たして帰途についた嘉納先生は、五月四日早朝、太平洋上氷川丸船内で肺炎のため急逝された。
 しかし、嘉納先生の活躍によりオリンピック日本誘致に成功したものの、第二次世界大戦の勃発により幻の大会となってしまった。
その後、日本で初めて開催された東京オリンピック(一九六四年)で、柔道もまた初めてその舞台に登場したのである。関係者にとっては感慨深いものがあったであろう。
 さて本書は、大滝忠夫編『嘉納治五郎 私の生涯と柔道』(一九七二年、新人物往来社)を底本として新たに編纂されたものである。
 嘉納治五郎は万延元年(一八六〇)に生まれ、明治一五年(一八八二)、二十三歳で講道館を創立しているが、柔術を学び始めた動機は、少年時代に虚弱な身体ゆえに学友から軽んじられていたことにあった。彼の少年時代は幕藩体制が崩壊し、柔術や剣術といった武術は、明治の新時代の大波に翻弄され、町道場は壊滅状態だった。彼は非力なものでも大力に勝てる柔術を学ぼうと奔走するが、道場は見つからず、家人も「学問以外は必要なし」と受け付けてくれなかった。
十八歳で念願叶って天神真楊流の柔術を福田八之助に師事し、学び始めた。しかし、その道場は整骨治療所の待合室兼用で僅か九畳であった。天神真楊流という流儀は、楊心流と真之神道流との二流を合わせたもので、磯又右衛門が開祖である。福田八之助はその直門で、幕府の講武所で教えていた人である。
 この福田先生の指導は今とは大分違ったものだったという。
 《或る時先生から或るわざでなげられた。自分は早速起きあがって、今の手はどうしてかけるのですときくと、「おいでなさい」といきなりなげ飛ばした。自分は屈せず立ち向かって、この手をどう足をどういたしますとしつこくきき質した。すると先生は「さあおいでなさい」といってまた投げ飛ばした。自分もまた同じことを三たびききかえした。今度は「なあにお前さん方がそんなことをきいてもわかるものか、ただ数さえかければ出来るようになる、さあおいでなさい」とまたまたなげつけた。こういうあんばいで、稽古はすべてからだに会得させたものだ》
 このように何の説明もなく、ただ身体に教え込む教授法に、柔道の創始者嘉納治五郎も稽古を始めた頃は、身体が痛んで動けなかったという。それでも一日も休まず稽古を続けた。明治一二年に福田先生が歿した後、一時その道場を預かって稽古を続けていたが、まだ一本立ちでやりぬくだけの自信もなく、さらに一段の修行を積みたいという熱望のやむときがなかった。その後、磯又右衛門の高弟、磯正智先生に師事して修行に励んだ。しかし、その師も明治一四年に歿してしまった。そこで、さらに師とすべき人を求めて苦心したが、大学の友人の父、本山正翁に巡り合った。 
 この本山先生は幕府の講武所で起倒流柔術の教授方を勤め、達人といわれていたので流儀は違うが教えを乞うたのである。しかし、この人は形の名人で、乱取りはさほど得意ではなく、またあまり教える気がなかった。そこで本山先生からやはり講武所の教授方であった飯久保恒年先生を紹介され、この先生について起倒流を学んだ。最初に学んだ天神真楊流では咽喉をしめたり、逆をとったり、押し伏せるということを主にしている。投げは巴投げ、足払い、腰投げなどをやったが、起倒流とは掛け方などに違いがあることを発見したという。
 飯久保先生は当時五十歳以上に達していたが、乱取りも相当よく出来たので熱心に稽古をした。また形も天神真楊流のそれとは主眼とする所を異にしていた。ここで本気で新しい研究に没頭し、真剣に技を錬った。

二流を合わせ学んだところから、《柔術は一流のみでは全きものではない、二流のみならず、なおその他の流儀にも及ぼし、各その長を採り、武術の目的を達するのみならず、進んで知・徳・体三育に通達することは工夫次第で、柔術はもっともよい仕方であると考えた。かかる貴重なものは、ただ自ら私すべきものではなく、弘くおおいに人に伝え、国民にこの鴻益を分かち与うべきものであると考うるに至った》
 当時、世間では武術などほとんど省みられず、極端にすたれていた。かの有名な剣客榊原健吉でさえ、撃剣仕合を興行し、木戸銭をおさめて糊口の資となすほどの時代だった。
そこで嘉納先生は「柔道」という新時代に相応しい名称でひろく世に行なおうと決心し、明治一五年、講道館を創立したのである。
ここまで嘉納治五郎の講道館柔道創設までの足跡を武術的側面から解説してきたが、嘉納先生の真骨頂は「精力善用、自他共栄」の思想の中にあると私は思っている。残念ながら本書ではその端緒しか書かれていない。また別の機会に紹介したいと思う。最後に編者大滝忠夫の「本書を世に送ることば」の中から以下の言葉を紹介して本稿を終える。
 《嘉納治五郎は、日本古来の柔術を取り上げ、これを見事に現代化し、日本人教養の道としてその教育体系を確立し、講道館を興してこれを教え始めた。―(中略)―嘉納治五郎先生の柔術から柔道への展開、いわゆる、武道の現代化は、日本人の教養の上に、さらには、世界の人々の教養の立場から、まさに一大達識であったと言わなければならない》

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 『武田惣角と大東流合気柔術』

万延元年(一八六〇)に二人の偉大な武術家が誕生している。一人は柔道の創始者・嘉納治五郎、もう一人は大東流合気柔術中興の祖・武田惣角である。
嘉納治五郎は現在の兵庫県に生まれ、十一歳で東京に移り、東京帝国大学で学び、教育者として柔道を弘く国内外に伝えた。一方武田惣角は会津に生まれ、学問を好まず、幼少の頃より大東流、相撲、槍術、剣術、棒術、鎖鎌、薙刀など多くの武芸を学んだ後、大東流合気柔術を限られた人にのみ伝授した。
武田惣角と大東流合気柔術は、十数年前までは今日ほど一般には知られていなかった。その理由の一端は徹底した秘密主義にあった。その辺りの事情をスタンレー・プラニンは、以下のように記している。
《惣角にとり、苦労して修得した武術は門外不出のものであり、また高い報酬の払える社会的地位のある者のみ伝授されるべきものであった》
明治の新時代に、知・徳・体三育の一環として柔道を弘く普及させた嘉納治五郎とは好対照に、武田惣角は伝統的な教授法で大東流を伝えたのである。
本書の構成は「大東流界第一線の師範方が語る」とサブタイトルにあるように、大東流合気武術宗範・佐川幸義、堀川幸道夫人・堀川ちゑこ、
大東流合気柔術幸道会総本部長・井上佑助、大東流合気柔術免許皆伝・久琢磨、大東流合気武道宗家代理・
近藤勝之、大東流合気柔術琢磨会総務長・森恕、大東流合気柔術六方会
宗師・岡本正剛、大東流合気武道宗家・武田時宗の大東流を代表する継承者にインタビューを試み、大東流と武田惣角の全体像に迫っている。
また、巻頭にスタンレー・プラニンが研究論文「武田惣角の足跡を辿る」を記し、巻末に「武田惣角年譜」と「大東流合気柔術道場/指導者一覧」を掲載している。
大東流合気柔術六方会宗師・岡本正剛師範の技を見るかぎり、大東流合気柔術は骨董品的な古武術ではなく、極めて合理的で実戦的な武術だと言える。しかし今日、柔道や空手のように普及していない最大の原因は、惣角から受け継いだ門外不出の
教えにあった。その伝統も岡本正剛師範が一九八五年に出版した技術書『大東流合気柔術』(スポーツライフ社/絶版。現在、気天舎より発行)によって改変されつつある。
全ての体術の技を言葉のみで表現するのは無謀である。したがって、ここでは武田惣角の足跡を辿ることによって、惣角と大東流合気柔術を紹介しよう。
武田惣角は一八六〇年十月十日、会津坂下町御池の武田屋敷に四人兄弟の次男として生まれた。八歳のとき、戊辰戦争が起こり、会津城および城下の町のほとんどが壊滅した。このとき父・惣吉は西郷頼母の下で会津若松戦争を経験した。
惣角は幼少の頃より槍術、剣術、相撲、大東流を父から学んだ。十三歳で東京の直新影流剣術家・榊原鍵吉の内弟子となり、剣、棒、槍、半弓、鎖鎌、薙刀の修行を約二年半行なった。
一八七六年九月、神職にあった兄・惣勝の突然の死により、兄の後を継ぐべく保科近悳(西郷頼母)の下で神職見習いをする。しかし、わずか数週間で辞め、九州の西郷隆盛の軍に入ることを決意。九州行きの途中、師・榊原鍵吉の紹介で大阪の鏡新明知流宗家・桃井春蔵に直々の指導を受ける。一八七七年初め、桃井道場同門の同志とともに西郷軍に参加しようと九州に向かうが、厳しい役人の警備の中を潜入出来ず帰還した。
同年九月、西南戦争の後、惣角は武者修行のため九州へと旅立つ。しかし、武器の使用は警察の取り締まりが厳しく、ほとんどの剣術道場は休業状態であった。行き場を失った惣角は軽業一座に加わり、各地を興行巡回した。その途中で沖縄空手の名手に出会う。その後、沖縄諸島を回って空手の達人を求めて試合をして歩き、一八七九年、九州に戻った。剣道はその頃には復活しており、九州各地で武者修行した。
一八八二年頃、福島で道路工事の人夫との喧嘩で大勢に怪我を負わせ、警察に一ヵ月近くも拘留されている。
一八八八年に会津でコンという女性と結婚し、二人の子供をもうけた。
一八九八年から四十五年間、惣角自身が記した英名録と謝礼録の二組の記録帳が残されている。それは二千ページ以上にもおよび、何千人にものぼる弟子たちの名前、住所、稽古日、謝礼額、その他のことが記入されている。
英名録によると、一八九八年から一九一〇年末までの惣角の活動の中心地は東北地方であり、宮城県、山形県、岩手県、福島県、秋田県での長期間滞在の記録が多数ある。その後の二十年間を北海道、特に北部地方を中心に教授しており、後に合気道開祖・植芝盛平との関係から白滝村に家を持つようになった。そして死ぬまで本籍は北海道にあった。
惣角の重要な弟子や教授代理允可者には北海道出身者が多く、当然彼らは直接教えを受ける機会も多かった。そのような弟子に、吉田幸太郎、堀川泰宗、堀川幸道、植芝盛平、佐川幸義、松田敏美などの名高い人たちがいた。
北海道に滞在した初期に惣角は再婚している。新しい妻・スエは惣角より三十歳ほど年下で七人の子をもうけており、そのうちの一人が現宗家・時宗である。
一九二一年から二二年にかけては東北および京都地方で活動していた。
そのうちの五ヵ月を京都綾部、大本教の拠点にある植芝塾で教授している。一九三六年から三九年にかけて、
大阪の朝日新聞道場で大東流を教授。
晩年の惣角は、そのほとんどを北海道に戻って過ごした。高齢にもかかわらず死ぬまで大東流の教授を続けた。一九四三年四月二十五日、青森で死去。享年八十三歳。
本書の大部分は各師範の生の声を収録しているが、今回は紹介を割愛したので読者自身が直接確認することをお薦めしたい。

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武士道教育総論』

《文と武について、世間では大きな考えちがいをしている。世間では歌を詠み詩をつくり、文筆が達者で気立てがやさしく優雅なのを文といい、武術、兵法を習い知って、気立ては勇猛でいかついのを武といいならわしている。似たことではあるが、似ていない。元来、文武というのは、一つの徳であって別々のものではない。天地の造物は一つの気であるのに陰陽の別があるように、人の感性は一つの徳で、その中に文武の区別があるのだから、武のない文は真実の文ではない。文を備えていない武も真実の武ではない。(中略)
だから、戈と止めるという二つの字をあわせて武の字をつくったのである。文道をおこなうための武道なので、武道の根は文である。武道の威力をもって治める文道だから、文道の根は武である。そのほかあらゆる面において、文武の二つは切り離すことができない。(後略)》
これは江戸初期に活躍し、陽明学派の祖で近江聖人と呼ばれた中江藤樹の『文武問答』の一節を現代語訳したものである。
文武両道の必然性を説いたものだが、これに関連して思い起されるのが、大山倍達極真会館総裁がかつて言われた言葉がある。
それは「力なき正義」と「正義なき力」についてである。総裁は正義を貫くため、「力」を身につける必要性を痛感し、修行に励んだ。しかし、その過程で「正義」のない「力」は蛮勇に過ぎないということを悟ったのである。
盧山初雄最高顧問もまた、その著書の中で《強さと優しさを持って世の中を歩くこと、これが本来の意味での武道だと思う》(『武道のススメ』)と語っている。
今回紹介するこの書は、江戸と明治時代に活躍した先哲者、山鹿素行、中江藤樹、熊沢蕃山、貝原益軒、大道寺友山、井澤蟠龍子、力丸東山、斎藤拙堂、徳川斉昭、吉田松陰、上杉鷹山、山岡鉄舟、植村正久、新渡戸稲造らの武士道論を、その原文と現代語訳を併記し、現代の教育に生かそうという試みで記されたものである。
 著者は風間健(道隆)武心道道主。
NHK朝の連続ドラマ「私の青空」に出演している筒井道隆の父親としても知られている風間道主は、少林寺拳法や空手を学び、キックボクシングなどのプロ格闘技でも活躍した後、現在武心道を提唱して斯界で意欲的に活動している。      
 さて、本書で最も興味をそそられたのが山鹿素行の武士道論である。
《江戸時代、武士道を政治哲学にまで高めて武士の教育をしたのが山鹿素行(一六二二〜一六八五)である。
 山鹿素行は、九歳で林羅山の学問所に入ったが、すでに四書五経を読むことができた。そして十五歳の時には、師の許しをえて『大学』の講義を行なっている。(中略)
 兵学は秘して見せずという性格上、一般の学問のようには普及しなかったが、素行の兵学は各藩の兵学者にうけつがれ、幕末には幕府講武所師範にまで発展している。大道寺友山も弟子であるが、長州では吉田重矩から子孫の吉田松陰、乃木希典へとつながっている。幕府講武所師範窪田清音の教えをうけた徳島の兵学者若山壮吉の又弟子にあたるのが勝海舟、板垣退助、坂本竜馬、中岡慎太郎、土方久元らの幕末・明治維新の英傑たちである。元禄期以前、赤穂藩でも山鹿流兵法の免許をうけた者が数名おり、その中の一人が大石内蔵助である。赤穂義士の討ち入りから引き揚げまでの作法も山鹿流兵法によるものであった》
 山鹿素行は、十六歳から著述を始め、六十四歳で没するまでの間に、おびただしい数の書物を著している。
孔子の教えを聖学とよび、学問は実学でなければならないと説いている。
 そのうちの『山鹿語録』四十五巻中の『士道』篇に記されていることが興味深く、以下に現代語訳で紹介する。
《ますらおは、ただ今日一日の用を全うすることを極致とすべきである。一日を積んで一月になり、一月を積んで一年になり、一年を積んで十年とする。十年がかさなって百年になる。一日はなお遠く一時にあり、一時はなお長く一刻にあり、一刻もなお余りある一分にある。このことからいえば、千万年のつとめも一分より出て、一日のうちに究まるものである。だから一分の時間をゆるがせにすれば、ついに一日に至り、終わりには、一生の怠りともなる。天地の生々は一分の間もとどまることがなく、人間の血気呼吸も一分の間も止まることがない。だから、その一瞬を大切に生きるべきである》
《その志が正しい道に志すというものでなければ、まことの道に到達することはできない。だからこそ道に
志すというのである。世馴れして物知り顔をする連中は、自己流の判断で道を定めて、そのほかの別の道はないと自分の意見にこだわると、まことの道から遠ざかって、ついには大道に入ることができない。武士の職分を知ったといっても、道に志すところがなく、また、知があっても正しい行ないが伴うのでなければ、万全とはいえない。これも最も詳しく究明しなければならないことである》
 山鹿素行は、士の職分を自覚し、道につとめ励むことにより、農工商三民の師表となると言っている。つまり、士の道は人間の道ということである。また礼節を重んじ、主君への絶対忠節を説いている。当時の封建制度の中での思想ゆえ、忠孝絶対視の感はいなめないが、その部分を除けば、現代にも通じる教えである。
山鹿素行について更に詳しく知るには、佐佐木杜太郎著『武士道は死んだか―山鹿素行武士道哲学の解説』(壮神社)をお薦めする。
読者諸兄はこのような先達の知を現代に生かし、文武を通じて己を磨き、人間の道を歩んで頂きたい。
最後に大山総裁のこの言葉で本稿を終える。《千日をもって初心とし、万日をもって極めとす》

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