SAMURAIのいろは 其の<に>

 

――仇討が美談となり、武士は庶民の「理想の武士像」にはまっていった

 

 むかし観た時代劇に将棋を指していて口論になり、不意打ちで斬られた父の仇討<あだ

うち>にでる息子がいた。また政敵から夜道で襲われ斬られた父の仇を討つ息子夫婦もあ

った。

 

 江戸初期までは仇討、つまり敵討<かたきうち>を武士は隠れてやった。名誉ではなか

ったからだ。

なぜか? ここが武士というものの真骨頂である。不意打ちで斬られたり、夜道で襲わ

れ斬られたりすることは武士として用心が足りない、つまり不覚をとったのであり、

恥としなければならない。仇を討つのは罰しはしないが、武士の本分ではないとした。

子、家族としての無念はわかる。が、武士として不覚をとった犠牲者の仇を討つのだか

ら決して名誉なことではない、これが武士であった。家康もこういっていた。仇討ちな

どさっさとやってしまえ。毒でも盛るか、家来に討たせろと。

 

この武士の道理で江戸の刑法はできている。一つ紹介する。

スリ、空き巣は被害額にかかわらず軽犯罪であった。5千円盗んでも100万円盗んで

も同じ百叩。まっ昼間、懐を狙われたり、空き巣に入られるのは被害者にスキがあり、

用心がたりなかったからだというのだ。そのかわり、戸締りをした家を襲う夜盗は重罪

だった。

 

幕府は江戸時代を通じ、仇討ちの法文化はしなかった。不文律、慣例法、つまり暗黙の

了解として仇討ちができるものは被害者の目下の者ということぐらい。こまかい作法は

各藩がそれぞれにかってにつくった。

江戸開闢の当時の関ヶ原で戦った武士たちは、連綿とつづく鎌倉時代からの武士の習い

をわきまえていた。身内の仇討ちを認めていたら一族郎党で斬り合いばかりして、優秀

な兵を欠くことにもなる。ホントの敵は他国の兵だとわかっていた。

 

 浄瑠璃や歌舞伎で江戸の庶民に人気だった曽我兄弟の父の仇討ち。源頼朝の富士山ろく

での巻狩り、ハンティングの隙をついて曽我兄弟は父の仇討ちをした。「天晴れ!」と褒

められてよいものを事実は生き残った弟は斬首の刑。理由は頼朝の巻狩りの席に無礼であ

るとのことだ。親の仇討ちより騒乱罪の方が重かった。赤穂浪士も、この理でいけば、

切腹という武士の栄誉刑でなく斬首であった。将軍のお膝元で騒乱罪を侵したのである。

 

 ここからが肝心であるからよく飲み込んでおいてほしい。

仇討ちを美談にしたのは庶民なのだ。庶民は、自分たちの首根っ子を押さえている武士

は理想の人間像であってほしかった。ならば首根っ子を押さえられていても文句はない。

しかし、泰平が百年も続き、将軍も五代目。武士も関ヶ原体験者の孫、ひ孫の代。奢侈

(ぜいたく)に流れたり、軟弱な武士も結構いた。「あんたらそれでもサムライか」と

うそぶいていた。イキ(粋)、男伊達、気風<きっぷ>は。町人の経済力がついてきた

ころ、武士へ対抗文化、カンター・カルチャーとして生まれたのだ。

 

 そんなとき、赤穂浪士の討入り。これぞサムライだせと誉めそやした。内心、いまどき

の武士へのあてつけだった。武士の方も近年の軟弱な同僚を嘆いていた者も多く、これに

乗った。

喧嘩両成敗は幕府の法、めったに刀は抜けなくなった。それよりまして武士の本分であ

る戦<いく>さでの恩賞、名誉もなくなった。武士たる沽券は消えうせた。で、晴れ舞

台は仇討ちしかなくなった。各藩もお家自慢になるから煽る。

 

 仇討ちが流行ると姦通した妻の相手を討つ、妻敵討<めがたうち>が現れた。庶民の講

談材料にもってこいだった。

これは復讐的私刑であり、仇討とは認められなかったが、幕府は罰することはぜず見ぬ

振りをした。だが、就職とか婿養子を推薦するとき、この者は妻敵討するような者では

ないとつけ加えた。妻敵討など武士の風上にも置けないからだ。

 

 元禄は武士の発生から700年余の歴史の中でキーポイントであった。拙著『使ってみ

たい武士の作法』の主人公浅田又左衛門を元禄の世の武士と設定したのは、そのためだ、

 

                        11月14日