田中光四郎さんのことをイメージしながら老いを考えた

 

DVD「田中光四郎 日子流武術 小太刀篇」(クエスト)につづき、著書『一所懸命』(壮神社)が十三日に発売される。

 

『一所懸命』には以前、「武道通信」に掲載された「聞書 思無邪」が載っている。その

第一回目の題目は「宗矩『兵法家伝書』は私の師匠。しかし人間的には武蔵の方が好き」

この一文に、田中光四郎さんの武人像がよく表れていると聞書き役は独り合点している。

 

「田中光四郎さんのことをイメージしなら老いを考えた」と、とんでもない題目をつけてしまったが、光四郎さんのことを心の中に思い浮かべるながら一般的な老いを考えるのである。

 

一度、死んだ(死ぬ覚悟をした)ことがある御仁と、そうでない御仁とは老いの背が違う。後ろ姿と云い換えてもよい。慣れ親しんでいる者の後ろ姿は、意外と見てないものだという前提の文言である。これは同類にしか見えないだろう。

 

『一所懸命』に推薦文とのことで、版元さんから頼まれしたためた。下記に載せる。

《現代の日本で、「さむらいの道」を探し、愁悶する者にとって、田中光四郎氏は一つの光跡を残してくれた。アフガン戰爭義勇兵と麻原こと松本智津夫天誅の試みである。

私事で恐縮。拙著『使ってみたい武士の作法』(並木書房)を上梓した。日本刀を腰に佩したさむらいは、歴史に彼方に消え去り、日本刀だけが残った。拙著の行間には、この悲懐が通奏低音として流れている。そして「さむらいとは一体、何者であったか」との長年の自問は、拙著で自答成しえたと独り合点している。

 しかし、一世紀後の日本人が、あの者たちが歩んだ道も、「さむらいの道」であったと喚想してくれるために、何を踏み越え、何をかき分け歩き続ければならないのか。この自問には、いまだ自答できずにいる。が、田中光四郎氏の光跡が、糸口になることは推知している。》

 

 どう老いたか、どう老いているか。老いは顔でなく背を見なければ見えない。つまり自分では見られない。人さまに見てもらうものだ。

 田中光四郎さん、この二作、この魂胆から出したのではなかろうか。拙者、田中光四郎さんの背は「さむらいの道」であったと合点している。

 

付記:武道通信かわら版から抜粋

◎田中光四郎・著『一所懸命』(壮神社)1500円(+税) 武人の道をただひたすら求めてきた「アフガンのサムライ」の人と思想の集大成

◎DVD 田中光四郎 日子流武術 小太刀篇(約70分 本体5600円) 発売元・クエスト http://www.queststation.com/