日本人の自画像 序章にかえて

 

 

 

現代の日本人も初めて日本刀を手にしたとき、人を斬る武器の恐ろしさと同時

に、その美しさに打たれる。たんに美しいと感嘆するのは外国人も同じであろ

うが、日本人は日本刀の美しさの中に神聖さを感じ取る。それはなぜか?

遠い祖先の生命力を感じるからである。

 

 

 

日本刀は「武士の魂」といわれてきた。この魂は古代日本の大和ことばの

「たま」からきている。生命であり、死してのちの霊力のことである。

「たまを取る」という言葉がいまでも使われる。命を奪うことである。

祖先は刀に「たま」を吹き込んできた。

 

神風特攻隊員が軍刀を狭い操縦席に持ち込んだのは、己の生命力を高めるため

であり、また祖先の霊力の助けを借りるためであった。

 

日本刀を初めて手にした日本人が感じる言うに言われない神聖さは、遠い祖先

の生命力、霊力を感じるからである。

 

 

 

刀剣研究家の高山武士は、日本刀には三つの要素があると、初級者にもわかり

やすく解説している。武器としての「機能」。次に武人としての尊厳を保つ

「精神」。そして、日本人の「美」。これは、どれが一番というものではない。

この三つの要素が重なって初めて日本刀なのである。

 

 

 

茶道、華道、書道などの精神と美は、日本刀に凝縮されている。祖先が森羅万

象を具現化したのが日本刀であるからだ。ゆえに日本刀は武士だけでなく、

日本人の姿、心を鉄に打ち刻んできた自画像なのである。

 

 

 

『武道通信』創刊号(1997.10)で「日本刀をみると、この国のかたちが見え

てくる」と日本刀特集を組んだ。それは日本人が自画像を見失っていたとき、

ここに日本人の自画像があるではないかとのメッセージであった。

 

創刊から10年の歳月は武士道論を盛んにさせた。嬉しいかぎりだが、統治者と

しての武士道論、武術家として武士道論のでなく、武士の魂である日本刀を通

して語ることがない。それでは武士の真の姿を捉えることができないし、日本

人の自画像も見えてこない。

 

いま新たに日本刀を語ろう。若き日本のサムライたちへ。同時に世界の日本刀

愛好家たちへ。

 

                        

 

この文は、私がゴーストライターとして聞き書きした高山武士「刀剣講話」

(『武道通信』連載)を手引きにし、武士にとっての武器としての日本刀、

また神聖なものとしての日本刀を考察し、なぜサムライの魂となったかに

迫りたい。

 

幸いにもイギリスの刀剣家、ポール・マーチン氏と日本武道具店主、角田芳樹

氏のご尽力により英訳され、当HP英語版に同時掲載される。諸外国への日本刀

KATANA)のブロバガンダとなれば幸いだ。

 

 

 

 <予告> 一章 日本人の自画像

 

なぜなら刀の前では貴賎貧富は関係ないからである。この著者・岡崎信實は

「刀の前では二品なし」と書いている。二品はない、要するに一品だという

ことである。現代訳でいえば「刀の前では皆、平等」となる。士農工商という

身分制度も刀の前では平等であった。刀剣は古くから日本人の自画像であった

といえる。