SAMURAIのいろは 其の<ま>

――辞世の句はサムライの嗜<たしな>み

 

今年も、あとわずかで1125日がくる。「ラスト・サムライ」の命日である。

自刃する前日、三島由紀夫が詠んだ辞世の句。

「益荒男が たばさむ太刀の 鞘鳴りに 幾とせ耐へし 今日の初霜」

 

サムライは、俺の葬式にはこの曲を流せ、遺影はこの写真にしろ、財産はこの

ように分けろなどのエンディング・ノートは書かない。死は合戦の場での確率

が高いし、平時でも敵に奇襲されるかも知れない。武術の訓練も、いまの競技武

道ではない。死の危険性をはらんでいた。「明日の命はないものと思え」と育成さ

れ、自覚もしている。

 

サムライは、カッコイイ死に方を想定内として育成されていたから辞世の句を

詠む嗜<たしな>みは必須だった。辞世の句こそエンディング・ノートであった。

稽古の意味でも、辞世の句を年に一句、二句は作っていた。出来、不出来は大事

であった。不運にもカッコ悪い死に方をしなければならないとき、辞世の句がカ

ッコよければ、名誉挽回になることは百も承知だった。

自分の肉体は露と消えても、辞世の句はあとあとまで残る。「そうか、こいつは

死ぬ間際、こんな心境だったのか。天晴れな奴だ」と、褒めてほしい。

武士の男子は武術と同時に辞世の句の稽古をした。これが文武両道の事始め。

江戸時代、村の名主の子供は、「御殿様、お願いです」と、年貢削減の嘆願書の

練習をさせられていた。所(身分)変れば品変るである。

 

赤穂の殿様、浅野内匠頭長矩<ながのり>の「風さそふ 花よりもなほ 我はま

春の名残を いかにとやせん」は、切腹させられた屋敷の近くの寺の僧侶が辞

世の句を残してやろうと、代筆した。やはり坊主臭い歌だ。

内匠頭、二、三日余裕があったら、もっと別な辞世の句を残しただろうと云う

のも、実は眉唾くさい。辞世の句を詠む余裕はなったというより、幕閣は詠ませ

たくなかったのが真相だろう。吉良上野介への恨みの真相がバレてしまうのを恐

れたからだ。だから即、切腹。たぶん、筆も与えてもらえなかったろうから、

あとからこれが辞世の句だとされた。

この話、わかる御仁にはわかるはず。余談がすぎた。

 

合戦がなくなった江戸の武士も、鎌倉、戦国の世のサムライの嗜みを守った。

幕末の最後、“百姓出”の近藤勇も土方歳三も、辞世の句を詠む嗜みを持っていた。

近藤勇、精一杯に力んで漢詩で詠んでいる。最後の節の意味は「「快く受く 電

光三尺の剣 ただ まさに一死をもって君恩に報いむ」。斬首を覚悟して詠んだ。

俳句好きな土方歳三は「よしや身は 蝦夷が島辺に 朽ちぬとも 魂は東(あずま)

の君やまもらむ」。五七五の俳句でなく、辞世の句は、やはり和歌で詠んでいる。

 自分たちの行動の源は、徳川幕府に殉ずることだと。敗者になろうとも、それ

だけは家族、郷里の者に、同志に残しておきたかった。

 

 勝ち組になるか、負け組になるか、それは時の運。大事なのは自分の信念を貫

くこと。負け組にも負け組のエンディング・ノートがある。

 いま流行りのエンディング・ノートは、ここがスッポリ、抜けている。