SAMURAIのいろは 其の<た>

――江戸と戦国の世のサムライはこんなに違う

 

江戸の武士の華は赤穂浪士であろう。燻<いぶ>し銀で同時代に

『葉隠』の山本常朝もいた。戦国の世なら北条早雲をはじめとし

て上杉謙信、武田信玄か。応仁の乱以後、織田信長が天下統一に

乗りだすまでの時代を、一応、戦国と呼ぶ。

 

応仁の乱がはじまる前、室町幕府6代将軍・足利義教<よしのり

>が重臣に殺された。兄の4代将軍の子5代将軍が死に、義教は、

叔父とかの候補者とのくじ引きで将軍になった。前歴は僧侶であ

った。足利幕府将軍の家督相続者以外の子は仏門に入ることが慣

例だった。

 

自宅へ義教を接待し殺したのは赤松満祐。それを知った他の重臣

たちは、仇討することなくじっとして動かなかった。なぜか? こ

んな大それたことを赤松一人でやれるわけはない。バックに大物

がいるに違いない。忠義ぶって仇討しようものなら、あとから謎

の大物のやられると思ったからだ。

将軍を接待してのだまし討ちだから赤松のヒールぶりは目立つが、

これが戦国の世の習いだともいえる。

 

戦国の世の華、武田信玄が他国を攻めたとき、みな国主を裏切り

信玄についた。その子勝頼が信長にあっけなく滅ぼされたのは、

同じように主家武田を裏切る家臣が続出したからだ。

 

 江戸のサムライの主君への忠義度の半分もなかった。だが、それ

も一理ある。戦国の世のサムライは、主君の家よりも自分の家名、

子孫を残すことの方が大事だと考えていた。なぜなら家臣から主君

への可能性、戦国ドリームがあったからだ。そこが江戸のサムライ

と根本、違う。明智光秀は戦国大名のよいサンプルだ。三日天下な

どの不忠義者の汚名はあとから付けられた。戦国サバイバルに敗れ

ただけだ。

 

 徳川幕府が磐石の幕藩体制を敷き、五、六十年もたつとサムライ

たちは自問しはじめた。

「臣、臣たれば君も君たれ「君、君たらずとも、臣臣たれ」

の間で、振り子のように揺れた。

おわかりかな。戦国の気風が残るのが前者。江戸の武士に課せら

れたのが後者と云へる。

 

出来過ぎた話ある。出来が良くないと評判の家光が三代将軍に決

まったとき、二代将軍、父の秀忠が家来たちに『君、君たらずとも

臣、臣たれ』と諭した。君たらざる主君に仕えるとなった時、お家

を守るためには家臣がしっかり支えなればならないと云うのだ。

これが江戸ザムライの忠義のテーゼとなった。前者は、主君がそ

の器でないときには、家臣の方で見限って捨てていくこともサムラ

イなのだ。

 

江戸幕府がちょうど100年で、赤穂浪士の忠義の仇討ちがあっ

た。戦国ザムライと江戸ザムライの、この心の揺れに答えを求めた

定朝の『葉隠』が生まれた。これもまた妙な因縁である。