SAMURAIのいろは 其の<か>

 

――自分の始末は自分で着けるのがサムライ

 

その<に>で、武士は庶民の理想の武士像にはまっていったと述べ

た。赤穂義士の出現がその因だ。それまでは仇討ち、敵討<かたき

う>ちは「天晴れ!」と褒められる手柄ではなかった。それも述べた。

 

仇討ちは武士の定めという法規はない。親兄弟が殺されたら殺して

やりたいと怨むのは、人のやむにやまれぬ情である。これは万国、

万民共通であろう。しかし、この情を野放したら法治社会は維持で

きない。それは万国も同じ。

 

「御定書百カ条」という刑事法令が暴れん坊将軍吉宗の時代にでき

た。仇討ちは禁止。でも、この百カ条、武士は蚊帳の外。士農工商で

いうところの三民のみ対象であった。つまり、刑はサムライには及ば

ないということだ。なぜならばサムライは自分の罪は自分で罪ほろぼ

しができる人間だという江戸幕府の基本理念だ。サムライは縄をかけ

られる前に自刃する――これである。

 

仇討ちを例にとると、三民、つまり庶民は親が理不尽に殺されても

仇討ちは認められない。サムライは許さぬと思えば、名乗りを挙げ、

殿様や将軍が認めてくれれば仇討ちできた。いや、尋常に勝負せよと

親の仇と白刃を交え、勝負が認められた。

ただし、返り討ちにされることもある。返り討ちされたらそれで終

わり。再リベンジはご法度。返り討ちした者は罰さられることはない。

あくまで武士と武士の納得づくの勝負であるからだ。

 

許さぬ、許すは個人の心情により、個人差がある。だから、一応、

幕府は基準を設けた。仇討ちの対象は父か兄の目上の者に限る。母や

姉の仇討ちはできない。そう、叔父や母の叔父は可とされた。

では、赤穂浪士は親の仇ではないではないかと。そう、殿樣の無念

を晴らした仇討ちだったから幕府の御用学者の内でも、その正当性で

論議された。まあ、その辺のところはややこしくなるから省くが、罪

状は騒乱罪だ。通常なら斬首。だが一応、武士の一分は立たせてやろ

うとのことで、サムライの名誉刑の切腹となった。

 

庶民はなぜ、仇討ちは禁止なのか。

庶民はサムライと違う、自分で犯した罪を自分で罰することができ

ない人種だから “お上”が代わって罰してあげる。

お白州の場で打首と判定が宣せられると「ありがたくお受けします」

と、罪人は頭を地べたにつける。わざわざ税金をつかってお上に手間

ひまとらせるのだ、「ありがたく」と云えと、牢役人からクギを刺され

ているからだ。

 

でも、庶民の仇討ちもないことはなかった。公認されないから黙っ

て殺った。それからお上に申し立てをする。お上は、そのやむに止ま

れぬ理由をよく調べ、わかった!となると無罪。でないと殺人で死罪。

 

戦国の世なら仇討ちはご法度であったはずなのに、なぜ、サムライ

と庶民の間に大きな壁をつくったか。同じ人間で、親兄弟への情はサ

ムライも庶民もかわりないことは百も承知だったはずである。

それは江戸のサムライは行政の長であることが第一となり、そのた

めサムライは庶民の模範となるべき存在であらねばならなかった。

仇討ちがサムライだけとしたのは、二百七十余の諸国(藩)のサムラ

イへのメッセージであった。

 サムライよ、お前たちは庶民の模範となるべき人間だ。自立心、自

尊心を持てと。そうでなければ、戦さのない世の中でサムライの世は保てないからだ。

降りかかった火の粉は自分で払う。自分で始末をつけるのがサムラ

イであるからだ――ということである。

 

昨今、行政の長でありながら自分の罪を自分で始末し、辞職するこ

とできない者が多いことか。サムライの世は遠くなりにけり……