第三十三話

平成二十九年 六月五日

 

糊口を凌しのぐ

 

十年ほど前か、日本武道具さんから「格闘技通信」創刊当時のいくかのバックナンバーを送っていただいた。日本武道具さん、「格闘技通信」全巻揃っている。

送っていただいた、わけは定かでない。2009年12月に「杉山頴男(ひでお)Net私塾 編集とは時代の精神との格闘だ! ──週刊プロレス・格闘技通信・武道通信への軌跡」との長たらしい題の<まぐまぐ有料メールマガジン>を発行。それではない。それ以前だとの記憶は濃い。

それはどうでもよい、本題。

 

「格闘技通信」が家には一冊もない。ない、と云うより家に一冊も持ち込んでない。

 入社したときの所属「週刊ベースボール・マガジン」も、次ぎの「(月刊)プロレス」「週刊プロレス」も家に持ち込んでない。

 そのわけはこれらは糊口を凌しのぐ稼業であり、本意の稼業ではないから。

 

 これはベースボール・マガジン社入社の際に明言していた。履歴書の入社動機欄は「生活のため」と一言。武士語で云えば「糊口を凌しのぐ」。

 野球が好きで野球雑誌の編集をしたい、などの嘘はつけなかった。武士だから(笑)。

 談余。その下の欄に特技があった。若僧は背伸びして小難しいことを書いのだろう。文言は記憶にない。社長がどう云う意味かと問う。一日中、天井を見ていられると即答。社長、即、面接会場だったホテルの天井を見上げて大笑い。即、入社。<のどかな>時代であった。

 

 若き日の宮本武蔵、糊口を凌しのぐための普請現場でアルバトをした。

大工の鑿、鉋、鋸の動きに見とれた。道具を使う手の動きに見とれた。鑿、鉋、鋸の役割分担の極めを見定める。

 それができたのも武蔵は少年時から枝木を削り木刀をつくっているからだ。少年ながら実戦を想い描き、長いもの短いもの、重いもの軽いもの、細いもの太いものをつくった。

 『五輪書』にある十三歳で初めての決闘に勝ったのも、実戦を想い描き木刀をつくっていたからであろう。左半身で構え、左手の小刀で相手の目につけ、投げるそぶりで間を詰める。後ろ回した右手には劍でなく木刀。その角度は相手からは長い木刀とは見えぬ。長い木刀とて劍よりはるかに軽い。敵は左手の小刀に気を取られ間合を見失う。間合に入った瞬間、一撃。木刀でも眉間を打てば死にいたる。一撃は劍にこだわらず。木刀でも投げ礫でもよい。

 

 武蔵がそれより驚いたのは、棟梁の目を配り。「多」に目を配り「一」に執着しない。人にも時間にも。武蔵は一対多の操刀術をここから学んだ。吉岡一門との一乗寺下り松の決闘で勝てたのは、

アルバト時代に盗みとった術。

武蔵は、糊口を凌しのぐ時間を無駄にしなかった。

 

 余談。

日本武道具さんには極真の外国人選手がよく顔を見せえていた。日本武道具の主{あるじ}は英会話は達者だ。極真会館本部は日本武道具さんから近い。

「格闘技通信」創刊時、極真会館から取材拒否された。わけはこうだ。大会を取材させてもらい記事にした。記事を印刷所に入れようとしたとき、極真会館から雑誌になる前に記事を読ませてほしいと。どんな風に書かれているか。要は検閲。それはできません。ジャーナリズムの端くれですから。巨人も阪神も卓球協会も、どこもかしこもんなことは云いません。「では、今後、取材拒否です」「はい、わかりました」

極真会館へ嫌みを云うのでない。極真会館を愛する広報担当さん、当たり前のことを要求したのだ。それが当時の“業界メディア”になる免罪符。そんな<のどかな>時代でもあった。

 即、NOと云えたのも業界誌から脱皮するために創刊した「週刊プロレス」が成功していたからだ。

拙者も糊口を凌しのぐ時間を無駄にしなかった。