下駄と草履の効用

 

 さて、最近は使われる頻度の低くなった下駄と草履について、少し書いてみましょう。

 江戸時代までは履物は下駄や草履が中心だったことは言うまでもありません。これは衣服がその国の気候風土に合わせて発達した典型なのです。先ず、日本は御存知のように欧米と比べると湿度の高い国ですから、革靴は元々適さなかったのです。これは和服でも同じことで、和服と洋服の一番の違いは、洋服が体の先にピッタリ着くような形になっているのに対して、和服は腰を除いてはそうではないことで、これも理由は履物と同じです(因みに現在見られる着物のほとんどは幕末のスタイルです)。

 ところが、履物が下駄や草履を使うことになって、実は思いがけない効用が生まれたのです。そのことを少し書いてみましょう。

 まず、草履や下駄は鼻緒を親指の間に掛けて履くように出来ています。すると重心が嫌でも足の親指の付け根にくることになり、踵に紙が一枚挟まったような状態になります。それによって体のバランス感覚がきわめて鋭敏になります。

 なぜそうなるのでしょうか。たとえば、高い所から飛び降りる時、私達は常に足の親指の付け根の部分、ちょうど現在の空手の前蹴りで使う部分ですが、無意識のうちにそこから着地しています。なぜなら、そうすることによって無意識に体のバランスを保とうとするのと同時に、足がショックアブソーバの役割を果たし、着地の衝撃を和らげるからです。これがもしベタ足で着地すれば、体のバランスを保つことが困難になり、着地のショックが脳天にまで響き、危険な状態になります。

 これは日常の歩行に於いても同様です。下駄や草履を履いての歩行は、知らず知らずのうちに体のバランス感覚が養われることになりますが、これは武道的に考えてもかなり重要なのです。つまり、蹴り技はもちろんのこと、体を捌く場合にも不用意に体勢を崩さないことが求められるからです。

 ついでながら、江戸時代までは現代のように腕を互い違いに振って歩くことはなく、右手と右足が同時に出る、いわゆるナンバ歩きが日常歩行だった、とまことしやかに書いてある本もあります。しかし残念ながらこれは正しくありません。ナンバ歩きは日常歩行ではなく、半身に体を捌く時の動きであり、要するに、日本には空手で言う逆突きの発想はなかった、というだけのことです。では日常歩行はどうだったのかというと、正しくは付袖といって、手を袖の中に入れ、袖を掴むようにして歩いたのです。

 現代では履物は靴が当たり前になり、必然的にベタ足歩行になっていますが、これによって身体機能の一つであるバランス感覚が鈍くなるという現象も起こり得ます。何もバランス感覚がつくことで達人になれるわけではないし、まさか草履や下駄を履いて出勤できるわけではありませんが、試しに日常歩行の際に、親指の付け根に重心を置いて歩くようにしてみてはいかがでしょうか。